クズルバシュの権力の衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 06:20 UTC 版)
「クズルバシュ」の記事における「クズルバシュの権力の衰退」の解説
彼らは軍人の最高位である大アミールの地位を得るため、タフマースブを奉じて互いに争った。たびたび部族間で同盟が結ばれ、大アミールの地位に就く人間が次々に入れ替わる状態がタフマースブの即位後10年の間続く。クズルバシュたちの抗争に乗じたオスマン帝国とシャイバーニー朝がサファヴィー朝の領土に侵入する危機を乗り切ったタフマースブは、1534年にクズルバシュの大アミール・フサイン・ハーン・シャームルーを反逆罪で処刑し、親政を開始する。40年近くにわたるタフマースブ1世の治世ではクズルバシュの抗争は沈静化し、クズルバシュを抑える方策が採られる。部族間の勢力の均衡を取る人事政策以外に、イラン、カフカース出身の人材の登用、サファヴィー家出身者の宰相への起用が行われた。政争に敗れたクズルバシュの有力者たちはオスマン朝に寝返り、オスマン朝のスルターン・スレイマン1世は彼らを利用してしばしばサファヴィー朝の領土に侵入した。 1578年にムハンマド・ホダーバンデが即位した後にクズルバシュ同士の抗争が再発し、内乱の期間は約10年間にわたった。この内乱期にオスマン帝国は東方に軍を進め、タブリーズを含むアゼルバイジャンの大部分がオスマン軍の占領下に置かれた。1587年に王子アッバース(アッバース1世)は、クズルバシュの有力者の一人であるムルシドクリー・ハーン・ウスタージャルーの後ろ盾を得てカズウィーンに入城し、ホダーバンデから王位を譲り受ける。翌1588年にアッバース1世はムルシドクリーを粛清し、親征に乗り出した。 アッバース1世は、クズルバシュに依存するサファヴィー朝の軍事制度の改革のため、新軍の編成に取り組む。国王から直接俸給を得ているクズルバシュから組織されるコルチ、カフカース系の宮廷奴隷から組織されるゴラームの二軍が近衛兵として編成され、加えてイラン系の兵士からなる砲兵隊が組織された。国王直属の軍隊の維持費を賄うために国の直轄領が増やされ、領主を務めていたクズルバシュの部族長たちは地位を失った。遊牧国家の特徴を備えていたサファヴィー朝がアッバースの改革によって性質を変えるとともに、クズルバシュは国家の中枢から遠ざけられた。
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