キャリア後年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 07:31 UTC 版)
灰田は昭和30年代に入ると徐々に人気は衰えてくるが、ラジオ・テレビに活躍は続き、作曲なども手掛けるようになった。昭和40年代のなつメロブームでは、欠かせない存在として活躍。昭和53年(1978年)1月15日放送の『ビッグショー 灰田勝彦・青年66才』(NHK)はFMラジオでの再放送や番組のLP発売がされ、人気の健在振りを示した。 芸能生活45周年を迎えた頃、灰田は歌手の淡谷のり子に招かれ亡くなる半年前に淡谷の事務所に移籍する。灰田が単なる懐メロ歌手ではなく現役のエンターテイナーとして健在であることを示すべく企画が進められるなどしていた矢先の1982年5月21日、銀座の高級クラブで行われたショー出演中に体調不良を訴えはじめ、数日後入院。軽度の脳出血だったため約1ヶ月の入院・リハビリを経て退院したがその直後末期の肝臓ガンであることが判明し、従兄弟が院長を務めていた半蔵門病院に再入院する。治療を続け、体調も回復していた。 しかし10月26日、朝食後に容態が急変し、妻の君子と長女に見守られながら71歳で死去した。朝食をとった直後はまだ容体は安定しており、灰田が大好きだった野球の放送時間を気にして「おい、1時になったら日本シリーズをつけてくれ」と言ったのが灰田の最後の言葉になった[要出典]。 葬儀には芸能界に留まらず、各界の著名人が顔を連ねた。 11月3日に予定されていた灰田の母校である立教大学に「鈴懸の径」の歌碑の除幕式への出席を心待ちにしていた矢先で、当日の除幕式には灰田に代わり母校の先輩で灰田とは約半世紀に及ぶ親交があった歌手ディック・ミネが音楽番組の収録を中途で抜けて駆けつけ、晴彦や君子未亡人らとともに式に出席。号泣しながら「鈴懸の径」を歌いその死を悼んだ。
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