カーティス音楽院卒業まで
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「ユジャ・ワン」の記事における「カーティス音楽院卒業まで」の解説
1987年2月10日にパーカッショニストの父とダンサーの母のもと、北京の音楽一家に生まれる。両親が結婚祝いとして貰ったピアノでメロディに親しみはじめ、6歳よりピアノのレッスンを開始した。母からはダンサーとなることを望まれていたが、体が硬かったため挫折したという。また、パーカッショニストだけでなく譜面起こしの仕事もしていた父はリズムに厳しく、完璧であることを求められたとも語っている。ピアニストになることを意識し始めたのは7、8歳のころであるという。 7歳のときより3年間北京の中央音楽学院にて学んだ。このころはブラームス以前の標準的なレパートリーに取り組み、曲を細部まで完璧に仕上げるよう指導されたという。1999年に12歳で奨学金を得て、カナダのカルガリーのマウント・ロイヤル・カレッジ(英語版)におけるモーニング・サイド・ミュージック・サマー・プログラムに当時最年少で参加。2001年には仙台国際音楽コンクールで3位に入賞。同年にはマウント・ロイヤル・カレッジにフルタイムで通い始め、スタインウェイ・アーティストにも選ばれている。15歳からはアメリカ合衆国フィラデルフィアのカーティス音楽院にてゲイリー・グラフマンに師事したほか、レオン・フライシャーの薫陶も受けた。また17歳のときにはマイケル・ティルソン・トーマスと出会い、以降師と仰ぐことになる。 この間2002年に、アスペン音楽祭のコンチェルト・コンペティションで優勝を果たし、翌年デイヴィッド・ジンマン指揮のチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団の共演でヨーロッパ・デビューを果たしている。2005年にはラドゥ・ルプの代役としてピンカス・ズーカーマン指揮の国立芸術センター管弦楽団と共演し、メジャー・コンサート・デビューを果たした。さらに2007年3月には、マルタ・アルゲリッチの代役としてシャルル・デュトワ指揮のボストン交響楽団と共演、カーティス音楽院を卒業した翌2008年にはマレイ・ペライアの代役も務め、21歳で世界的な名声を獲得した。
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