オープントーナメント
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1969年9月、極真会館主催の第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会が開催された。参加選手は48名でA・B・Cとトーナメントが分けられ、それぞれ勝ち上がった選手同士で決勝リーグ戦を行う形式であった。選手権前の心境を山崎は「直接打撃は問題ないが、「オープントーナメント」と謳っている以上、どのような挑戦者がエントリーしてくるのか、気がかりであった。架空の敵を想定しながら稽古を続け、大山倍達館長も色々と細かいアドバイスをして下さり、大変参考になり何より心が落ち着いた」と振り返る一方で「何としても負けられない。私か添野義二か、どちらかが全日本のチャンピオンになると…。もし、我々極真カラテの黒帯が他流派や他の格闘技者に負けたら極真カラテはそこで終わってしまう」と、精神的重圧が相当なものであったことを認めている。 このプレッシャーに負けず、キックボクシングで使った前羽の構えや、円心の構えを対戦相手に応じて変え、従来の空手道にムエタイの技を加えた攻撃で、ほとんどの試合を一本勝ちした。中には、他流派と山崎の対戦がケンカ同様の展開となり、間に入り一旦中断しようとした主審の関川博明 が双方から突きをもらい、関川が失神してしまった試合もあった。決勝リーグ戦に進出し、残り2つのトーナメントから添野・長谷川一幸が勝ち上がってきた。この三者で行われ、添野を判定で優勢勝ち・長谷川には回し蹴りで一本を決め、優勝した。当時は「組手試合」の他に、厚さ2.8センチメートルの杉板を使用した「試割り試合」もあり、正拳3枚・足刀 4枚・手刀5枚・猿臂(エンピ))4枚の計16枚で優勝をし、ダブルタイトルを獲得した。山崎はこの喜びを白帯時代に指導を受けた石橋雅史へ連絡し、謝意を示している。
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