オーストリア=ハンガリー・ロシア時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 10:26 UTC 版)
「ルーシ人」の記事における「オーストリア=ハンガリー・ロシア時代」の解説
18世紀末のポーランド・リトアニア共和国の分割によってベラルーシはロシア帝国の支配下に入り、ウクライナ人の居住地域はロシア帝国とオーストリア=ハンガリー帝国によって分割された。ロシアはウクライナとベラルーシの両民族を「小ロシア人」と「白ロシア人」とし、「ルーシ人」の名は用いられなくなった。一方、オーストリアおよびハンガリーが支配する西ウクライナ(ウクライナ語版)で「ルーシ人」の名は依然として「ルテニア人」というラテン語風の形で用いられ続けた。ルテニア人はガリツィア・ロドメリア王国の重要な構成民族となり、のちには彼らの言語(ウクライナ語)が事実上の公用語となった。 ロシアの啓蒙専制君主であるエカチェリーナ2世はウクライナの自治を廃止してロシアに併合した張本人であったが、同じ啓蒙専制君主であってもマリア・テレジアやヨーゼフ2世が治めたハプスブルク帝国は、ロシア帝国が小ロシア人に行ったほどには、ルテニア人の民族文化復興運動に対して壊滅的な打撃や徹底的な弾圧は加えなかった。ハプスブルク帝国においてポーランド人が支配者階級として振舞ったのに対し、これに反発していたルテニア人は独自の民族運動を展開した。西欧でポーランド人が「母国を失った不幸な民族」と同情されていたのに対し、ルテニア人は1848年革命の際に反ポーランド蜂起を起こし、西欧を唖然とさせた。オーストリア政府は、強固に反抗するポーランド人に対してより帝国に忠実であったルテニア人に、ある程度の権利を認めた。1890年には、初めて「ウクライナ」という名称を用いたウクライナ急進党(ウクライナ語版)がイヴァン・フランコとムィハーイロ・ドラホマーノウ(ウクライナ語版)らによって結成された。その後、ウクライナ人としてのルテニア人の民族運動は、ポーランド人との対立の深化に連れて確立していった。 一方、ロシア帝国では小ロシア人は白ロシア人とともにロシア政府による強力な同化政策の対象となり、民族運動は厳しく取り締まられた。ロシア帝国領となったウクライナでは、取締りの厳しさに加えて同化政策によって大ロシア人・白ロシア人とひとまとめに「ロシア人」とされた結果、西ウクライナにおけるポーランド人のような明確なライバルが定まらず、西ウクライナより民族運動の盛り上がりは遅れた。小ロシア人は自分たちの言語の使用すらも制限されたため、知識人の一部はオーストリア領であった西ウクライナへ逃れた。
※この「オーストリア=ハンガリー・ロシア時代」の解説は、「ルーシ人」の解説の一部です。
「オーストリア=ハンガリー・ロシア時代」を含む「ルーシ人」の記事については、「ルーシ人」の概要を参照ください。
- オーストリア=ハンガリーロシア時代のページへのリンク