オラトリオと晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:10 UTC 版)
「ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル」の記事における「オラトリオと晩年」の解説
ヘンデルは1732年の『エステル』以来、英語のオラトリオをいくつか上演している。1734年から1738年まではオラトリオの新作を発表しなかったが、1739年はじめにオラトリオのシーズンを開き、『サウル』と『エジプトのイスラエル人』を上演した。1741から翌年にかけてダブリンで慈善演奏会を開き、このときに『メサイア』を初演して好評を博し、アイルランド総督の依頼を受けてわずか24日で書き上げたこの作品は起死回生の一作となった。ロンドンに戻ってからはオペラをやめてオラトリオ一本にしぼり、ロンドンで四旬節の期間に演奏会を開き、オラトリオ作家としての名声を確立していった。一方、ヘイマーケット国王劇場ではミドルセックス伯爵(en)が中心になって再びイタリア・オペラが上演されるようになり、ヘンデルの新たなライバルになった。 1749年にはオーストリア継承戦争の終結を祝う祝典のために『王宮の花火の音楽』を作曲する。 1751年に眼の視力を失い、間もなく右眼の視力も悪化し、1752年に完全に失明したため作曲活動はできなくなったが、その後も演奏活動だけは続けていた。1758年の夏、タンブリッジ・ウェルズで眼科医のジョン・テイラーによる手術を受けたが成功しなかった(ジョン・テイラーはバッハにも同様の手術を施して失敗している)。翌1759年、体調の悪化により死去。74歳であった。ウェストミンスター寺院に埋葬された。 ヘンデルが没した翌年にジョン・マナリング(英語版)によるヘンデルの伝記が出版された。音楽家の伝記が出版されることは当時としては異例であった。1784年にはヘンデルの生誕百周年を祝って大編成の管弦楽団によるヘンデル記念祭が挙行され、その後も記念祭は続けられた。サミュエル・アーノルドによるヘンデル全集は1787年から1797年までかけて刊行された。 ヘンデルは1724年以来、メイフェアのブルック街25番地に住んでいた。偶然にも1968年以降ジミ・ヘンドリックスが隣の23番地に住んでいた。現在この建物は「ヘンデル・アンド・ヘンドリックス・イン・ロンドン(英語版)」という博物館になっている。
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