オボック開拓
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これを受けて在アデンフランス大使であったアンリ・ランベールがオボック港の獲得に乗り出すが、2年後に暗殺されて計画は頓挫する。フランスが再度この地域における拠点の確保に動いたのは、軍が1861年にコーチシナ方面への進出を開始してからであった。1862年3月11日、フランスの外相と地元アファル人首長との間で契約が結ばれ、オボックに初のフランス租借地が誕生する。契約額はおよそ1万ターラーであった。ところが、フランスはオボックをたった1人の現地人に守衛させるのみで実用化を進めず、依然としてアデン経由の貿易を行っていた。フランスがこの消極的な紅海政策の変更を余儀なくされたのは1880年代になってからである。フランス軍がトンキンへの侵攻を強めようとする中、清仏関係における中立を守るという名目でアデン港でのフランス船に対する給炭が拒否されるというできごとが1883年に起こる。また、マフディー戦争と前後して大英帝国はエジプト政府に深く関わるようになり、東アフリカにおいてフランスを含む列強との競合姿勢を強める。このころオボックに赴任した24歳の若き司令官レオンス・ラギャルドは現地の惨状を憂い、本国からの経済的支援強化を取り付けて植民地の改革を実行した。
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