エディ・グラハム時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 17:41 UTC 版)
「チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ」の記事における「エディ・グラハム時代」の解説
ラットレルの養子であるグラハムは、1961年よりプロモーションの買収を始めており、1970年9月にCWFの全権を掌握。1970年代前半はフロリダ・ヘビー級王者のブリスコがエース格となり、バレンタイン、タイラー、クリス・マルコフ、サンダーボルト・パターソン、ラリー・ヘニング、グレート・メフィスト、ディック・マードック、ボビー・ダンカン、オレイ・アンダーソン、ベアキャット・ライト、ポール・ジョーンズ、マッドドッグ・バション、ティム・ウッズ、バディ・コルトらを相手に防衛戦を展開。ジャック&ジェリー・ブリスコ対ドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンクの兄弟タッグ抗争なども人気を博した。 ジャック・ブリスコのNWA世界ヘビー級王座戴冠後は、それまでヒールのポジションにいたダスティ・ローデスが、マネージャーのゲーリー・ハート及びパートナーのパク・ソンとの仲間割れアングルで1974年5月よりベビーフェイスに転向。以降、アメリカン・プロレスを代表する大人気スターとなり、CWFも全米有数の繁栄テリトリーに発展。オーナーのエディ・グラハムは1976年から1978年までNWAの会長を務め、1978年1月25日にはマイアミ・オレンジボウルにて、当時のNWA世界ヘビー級王者ハーリー・レイス対WWWFヘビー級王者スーパースター・ビリー・グラハムのダブル・タイトルマッチを『スーパーボウル・オブ・レスリング』と銘打って実現させるなどの手腕を発揮した。 ベビーフェイス陣営では、ペドロ・モラレス、ロッキー・ジョンソン、ボボ・ブラジル、マニー・フェルナンデスなどがローデスの脇を固め、1970年代後半からはジャック・ブリスコもCWFに復帰。1980年代に入るとバリー・ウインダムやマイク・ロトンドなどの新しいスター候補も誕生した。ベテランのワフー・マクダニエルやミスター・レスリング2号、有望株だったブルース・リードやビリー・ジャック・ヘインズ、フェイスターンしたブラックジャック・マリガンやバグジー・マグロー、ゲスト出場のアンドレ・ザ・ジャイアントもローデスと共闘し、ディック・マードックも時折参戦してテキサス・アウトローズを再結成した。 ヒール陣営では、ザ・ファンクス、ラーズ・アンダーソン、ボブ・ループ、キラー・カール・コックス、ザ・スポイラー、ジョー・ルダック、アーニー・ラッド、レロイ・ブラウン、ドン・ムラコ、イワン・コロフ、ニコライ・ボルコフ、バロン・フォン・ラシク、ディック・スレーター、ボビー・ジャガーズ、ロン・バス、ケビン・サリバン、マーク・ルーインらが活躍し、アブドーラ・ザ・ブッチャーやブルーザー・ブロディもスポット参戦し、サー・オリバー・フンパーディンクやJ・J・ディロンなどの悪党マネージャーがローデスらベビーフェイス陣営との抗争を指揮した。東洋系ヒールの日本人選手ではミスター・サイトーをはじめ、キラー・カーン、ミスター・ヒト、ミスター・サト(ザ・グレート・カブキ)、ミスター・サクラダ(ケンドー・ナガサキ)などが参戦。NWA世界ヘビー級王者のハーリー・レイスやリック・フレアーも定期的に登場して防衛戦を行った。 日本とは、当初はNWAルートで全日本プロレスと接点を持っていたが、ブッカーのヒロ・マツダの仲介で1978年より新日本プロレスと提携。1980年4月16日にはマイアミビーチにて、アントニオ猪木がボブ・バックランドに挑戦したWWFヘビー級王座のタイトルマッチが行われた。後にドリー・ファンク・ジュニアがブッカーに就任したこともあり、1982年以降は再び全日本プロレスと提携している。
※この「エディ・グラハム時代」の解説は、「チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ」の解説の一部です。
「エディ・グラハム時代」を含む「チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ」の記事については、「チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ」の概要を参照ください。
- エディ・グラハム時代のページへのリンク