インドシナの日本軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 09:10 UTC 版)
「マスタードム作戦」の記事における「インドシナの日本軍」の解説
降伏する前の日本軍は、1945年3月までは現地フランス軍部隊と協同で警備を行っていたが、マニラを陥落させたアメリカ軍によるインドシナ半島侵攻への警戒と仏印当局への不信感から、3月9日にフランス軍部隊を解散させ1万5000名の兵士を捕虜にしていた(明号作戦)。このため、連合国軍再進駐の時点でも日本軍部隊の武装解除は一切行われていなかったのである。 8月19日に勅令を受領した南方軍総司令官寺内寿一元帥は、直ちに南方軍の任務引き継ぎおよび降伏に関する交渉に着手し、参謀長沼田多稼蔵中将が交渉における日本側代表者となった。沼田は連合国側代表者らに対し、「戦争の勝敗など日本人にはどうでもよい。それよりはるかに重要なのは、武士道の精神を守ること、つまり軍国主義の精神を守ることだ」と述べたという。当時、インドシナには第21師団、第22師団および諸独立編成部隊など71,000名以上の日本兵が駐留していた。 また、ベトミンは日本兵に対し、ベトミンへの参加を求める説得工作を行っていた。これを受け、英印軍の到着前後に2,000名ほどの日本兵が脱走したと言われている。ハノイでは8月15日以降、日本軍第38軍が降伏に備えて待機していたが、一部の部隊や軍人がベトミンに武器を引渡していた(第一次インドシナ戦争#日本軍憲兵隊)。
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