イロコイ族のヌーベルフランス攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/17 02:17 UTC 版)
「ビーバー戦争」の記事における「イロコイ族のヌーベルフランス攻撃」の解説
1640年代初期、イロコイ族がフランスと交易しているワイアンドット族を混乱させようとしてセントローレンス川沿いの集落を襲った。1649年、イロコイ族はワイアンドット族領地の中心部に破壊的な攻撃を掛け、幾つかの重要な集落と数百名の住民を殺した。殺された中にはイエズス会宣教師のジャン・ブレビュフ、シャルル・ガルニエおよびガブリエル・ラルマンが含まれていた。彼らは白人の間ではローマ・カトリック教会の殉教者と見なされた。この攻撃に続いて、残っていたワイアンドット族は五大湖地方のアニシナベ連邦(オジブワ族)の援助を求めて散り散りになった。同地ではオダワ族系のオッタワ族が残って、後にフランスとの毛皮交易を引き継ぐことになった。 1650年代早く、イロコイ族はフランス人入植者への攻撃を始めた。イロコイ連邦の中にはオナイダ族やオノンダーガ族のようにフランス人と平和的な関係を持っている部族もいたが、モホーク族の影響下にあることも事実だった。モホーク族は連邦の中でも最強の部族であり、フランス人が存在することに敵対意識を持っていた。カナクイーズ酋長による和平交渉が失敗すると、好戦的な部隊が北へシャンプレーン湖からリシュリュー川を通ってヌーベルフランスに侵攻し、モントリオールを攻撃し封鎖した。彼らは森の中を素早く音もなく移動し、突然襲いかかって、斧や皮剥ぎナイフで敵を襲うという常套戦法で、モホーク族は孤立した農園や入植地を襲った。捕虜をイロコイ族の村に連れ帰る場合もあった。捕虜が女子供の場合は部族の生活の中に組み入れられた。「新しい血」を部族の同胞に迎える、というこの風習はイロコイ族の伝統文化である。 このような襲撃は常にあるというものではなかったが、インディアンの土地に入植地を開いたヌーベルフランスの住人を恐れさせ、また彼らは無力だった。このような攻撃に反撃したのが、フランス系カナダ人にとっての何人かの英雄であり、たとえばドラール・デ・オルモーはセントローレンス川とオタワ川の合流点にあるロング・ソールトでのイロコイ族の攻撃に抵抗し、1660年5月に死んだ。オルモーはその犠牲によって入植地モントリオールを救うことに成功した。白人の間の他の英雄には、1692年に14歳で、イロコイ族の攻撃に対する家族の防衛を率いたマドレーヌ・ド・ヴェルシェールがいた。
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