イスラームと東ローマ帝国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 09:29 UTC 版)
「古代末期のキリスト教」の記事における「イスラームと東ローマ帝国」の解説
655年、アラブ海軍は小アジア沖の海戦でまみえたが、伝統を誇るビザンツ海軍は惨敗を喫した。皇帝コンスタンス2世はシチリア島に逃亡するが、暗殺された。こうしてアラブ人は地中海の支配者となった。 イスラム内乱後の661年に成立したウマイヤ朝はチュニジア、キュジコス半島を確保した。アラブ海軍は674年から678年まで東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを包囲した。東ローマはギリシアの火によって撃退した。しかし、698年にはウマイヤ朝がカルタゴを占領した。 717年〜718年に、アラブ軍は陸海からコンスタンティノープルを包囲したが、皇帝レオーン3世はイスラム軍の撃退に成功した。しかし、ローマ人が「我らの海」と呼んだ地中海は「イスラームの海」となっていた。レオーン3世は740年に小アジアのアクロイノンの戦いでアラブ人に大勝した。アラブではアッバース朝が成立してイスラーム世界の中心が西アジアに移った。その後827年にはシチリア島がイスラムによって征服され、さらに南イタリアを制圧した。837年にテオフィロス皇帝のビザンツ軍がイスラーム領に侵入すると、カリフのムータスィムが小アジアに侵入し、ビザンツ軍は敗れ、皇帝の故郷アモリオンは陥落した。しかし、テオフィロスの息子ミカエル3世は863年にアラブ軍に大勝した。 ビザンツ皇帝レオーン3世はイコノクラスム(聖像崇拝禁止)を行ったため、「サラセン魂(サラセンとはムスリムのこと)」と非難された。東ローマはローマ教皇と対立したが、787年の第2ニカイア公会議でイコン(聖像)敬拝が認められた。 7世紀から9世紀にかけて、アラブ人の侵入によって、古代ローマ以来の属州制度に代わってテマ制(軍管区制)が確立し、各テマの長官がかつての属州総督に代わって軍事権と行政権を持つようになり、半独立政権のテマが各地に成立していった。7世紀後半にはテマの反乱があいつぎ、レオーン3世皇帝はテマ統制のために、テマの権限を認めるテマ連合体制をとった。このようなテマ連合国歌としてのビザンツでは、コンスタンティノス5世のような軍人皇帝下ではうまく運営されたが、幼いコンスタンティノス6世や女帝エイレーネーとなるとうまく運営できず、テマの反乱が勃発した。皇帝側は、テマを分割してテマ長官の権限を縮小させるとともに、強力な中央軍団を創設した。こうして820-823年のスラブ人テマ長官トマスの反乱を最後に、テマ反乱はなくなり、皇帝専制体制のもとで安定した。
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