イギリス・フランス間の争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/14 06:40 UTC 版)
「第二次マイソール戦争」の記事における「イギリス・フランス間の争い」の解説
イギリスとフランスの関係は相いれないもので、ヨーロッパ本国では無論、南インドでは尚更であった。彼らがヨーロッパ方面で争うと、植民地でも同様に争われ、アメリカ独立戦争のイギリス・フランス間の争いがこの第二次マイソール戦争にも持ち込まれた。 マイソール王国とイギリスが戦闘に突入したのち、フランスはマイソール王国との同盟関係上、シャルル・ジョゼフ・パティシエール・ド・ビュシー、 ピエール・アンドレ・ド・シュフランという人物を送っていた。両者はハイダル・アリー父子に迎え入られ、前者はあまり活躍を見せなかったが、後者はこの戦争の後半戦で大きな働きがあった。 1782年2月7日、シュフラン率いるフランス艦隊がエドワード・ヒューズ率いるイギリス艦隊をベンガル湾、サドラス沖で破っていた(サドラスの海戦)ほか、その前後にはいくつかの戦いがあった。これはアメリカ独立戦争の戦いの一部としても数えられている。 さて、アイル・クートは大勝後に休養のためベンガルに帰還し、ジェームズ・スチュアートという人物がマドラス軍指揮官を引き継いだ。彼はマドラスを出発し、フランスの支配下にあるカッダロールを奪取しようと東海岸を進み、1783年6月7日にカッダロールを包囲した(カッダロール包囲戦)。 こうして、シュフラン率いるフランス艦隊はカッダロールの包囲を解くために進撃し、同月20日にフランス艦隊とイギリス艦隊がカッダロール沖で激突し、フランスの艦隊がまたしても勝利した。 同年9月3日にアメリカ独立戦争での講和条約であるパリ条約が締結されると、英仏は講和し、南インドにおける英仏間の争いも終わりを告げた。イギリスはフランスに占領地を返還したが、これ以降フランスが南インドにおいて深く関わることは無くなった。
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