アレクサンデル・フレドロとの対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 09:56 UTC 版)
「セヴェリン・ゴシチンスキ」の記事における「アレクサンデル・フレドロとの対立」の解説
彼は1835年に論文 Nowa epoka poezji polskiej〈ポーランド詩の新時代〉で、アレクサンデル・フレドロ(Aleksander Fredro)の喜劇の「非ポーランド的な登場人物」を鋭く批判した。彼は次のように書いている。「ポーランドの姓はポーランド的な登場人物と同じという訳ではない; 何人かの人物たち、何個かの国民的シーンは、4巻の詩に国民色を注ぎはしない; 登場人物や作品全体とは関係のないことわざのパテは、ことわざの辞書にすぎない; 国民の愛の側面というのがコスモポリタン的な特徴である――そしてこれは本当にフレドロの喜劇のポーランドらしさとなる本当に全てであるのだが、美徳、面白可笑しさの欠陥、独特な登場人物たち、普通の人相、真に国民的な個性の記念碑を造るものは全然何であろうと、あなたはそこで甲斐もなく探す破目になることであろう。」 この攻撃は低劣な動機によるものであった。ゴシチンスキ自身が回想録中に述べているように、彼が1832年に「二十一連合」の機関紙のための資金を望んだときに、フレドロへの敬意を失った。フレドロは助成金承認委員会のメンバーとして、委員会のメンバーたちが彼らが後援する記事を検閲することができるように要求したのである。ゴシチンスキはこの条件に同意せず、機関紙が発行されることはなかった。 ゴシチンスキのテクストは、喜劇作家に対する一連の攻撃(ヴィンツェンティ・ポル、エドヴァルト・デンボフスキ Edward Dembowski、レシェク・ドゥニン=ボルコフスキ Leszek Dunin-Borkowski、ポズナンの "Tygodnik Literacki"〈文学週刊誌〉中の匿名記事)の最初のものであり、このせいでフレドロは長年沈黙することとなった(作家自身の報告によればそれは13-15年続いたというが、研究者たちはその長さを12-19年と推定している)。
※この「アレクサンデル・フレドロとの対立」の解説は、「セヴェリン・ゴシチンスキ」の解説の一部です。
「アレクサンデル・フレドロとの対立」を含む「セヴェリン・ゴシチンスキ」の記事については、「セヴェリン・ゴシチンスキ」の概要を参照ください。
- アレクサンデル・フレドロとの対立のページへのリンク