アメリカ市民時代
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「シュテファン・ハイム」の記事における「アメリカ市民時代」の解説
1943年からシュテファン・ハイムはアメリカ市民として第二次世界大戦に従軍。ドイツの亡命者ハンス・ハーベ(ドイツ語版)を司令官とする心理戦部隊リッチー・ボーイズに就き、1944年にノルマンディー上陸作戦に参加した。彼の任務は、ドイツ国防軍の戦意を喪失させるために、主に飛行機からのビラ、軍事新聞(ドイツ語版)、大ボリュームスピーカーやラジオ放送で使うテキストを考えることだった。戦争終結後、ハイムはエッセンのルール新聞(ドイツ語版)を担当、さらにミュンヘンでノイエ・ツァイトゥング(ドイツ語版)の編集長を勤めた。これらの新聞は、非ナチ化をすすめるアメリカ占領軍にとって極めて重要な新聞であった。親ソ連的な態度が問題になり、1945年末にハイムはアメリカに戻ることになり退役、再びフリーライターになる。1948年末にボストンで小説『クルセイダー(The Crusader)』を出版。1948年12月24日にドイツ系ユダヤ雑誌『アウフバウ(ドイツ語版)』寄りだったハインリヒ・エードゥアルト・ヤコブ(ドイツ語版)がハイムの小説を酷評した。ヤコブにとって、「ハイムは、たんに解放者たちの側から、『疲弊した』パリと『彼にとっての』最前線の断片」を見ただけであり、ハイムの描写は不充分であり、「誤解」の可能性が生じるものであった。ヤコブが感じたのは、ハイムは「今日(1948年)すでに非中立的な外国で自分の本が多くの人に読まれて人気を博していることを利用」し、「意外性を与えているが、どれほどすぐに誤解されてしまうかと言うことを知るべきである」。ハイムはそのことを考えることができず、また考えようともせずに、亡命者の立場から一亡命者であるヤコブのことについて、別の亡命者である『アウフバウ』の編集長であるマンフレート・ゲオルゲ(ドイツ語版)に苦情を訴えている。 1952年、マッカーシズムは左翼的とみなされた知識人や芸術家を国外に移住させるきっかけを作り、ハイムは、チャールズ・チャップリン、ベルトルト・ブレヒト、トーマス・マンと同じ時期にアメリカを離れた。彼はまずプラハに行き、そこから1953年に東ドイツに移住した。
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