アブルッツォの征服、1053年–1105年
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「ノルマン人による南イタリア征服」の記事における「アブルッツォの征服、1053年–1105年」の解説
1077年に最後のランゴバルド系のベネヴェント公が死んだ。ローマ教皇は1078年にロベルト・グイスカルドにその後を継ぐよう指名した。しかしながら、ロベルト・グイスカルドは、以前の、特にチヴィターテの戦い後の10年間、さらには1078年以降にも及ぶノルマン人の征服によって構成部を成していたベネヴェント自体及びその隣が縮小されたも同然であった公国を1081年に譲渡した。1080年6月にチェプラーノにて教皇は、ノルマン人による自領への侵害を止めさせるのを試みるために、それと同時にベネヴェントとロベルト・グイスカルドの関係者が自らのために征服したアブルッツォを技術的に結合させるためにベネヴェンドをロベルト・グイスカルドに再び付与した。 チヴィターテの戦いの直後にノルマン人はベネヴェンド公国のアドリア海沿岸の征服を開始した。メルフィ伯ウンフレートの兄弟であるゴッフレードク(イタリア語版)はラリーノのランゴバルド系伯領を征服してサムニウム地区のモッローネ城を襲撃した。ゴッフレード1世の息子であるロベルト1世[要リンク修正][要曖昧さ回避]はこれらの征服地を1061年にロリテロ伯領(イタリア語版)へと変えた。それにも係わらずロベルト1世は自領をランゴバルド人のアブルッツォへの拡張を続けた。現在のキエーティにあったランゴバルド系のテアテ伯領を征服しオルトーナを包囲して、これがこの地区でのノルマン人による試みの目標となった。まもなくペスカーラや教皇領の北部まで進撃した。1078年にはロベルト1世はカプア公ジョルダーノ1世と同盟して教皇領のアブルッツォを略奪した。1080年に締結されたローマ教皇グレゴリウス7世との条約で両人は教皇領を尊重することを強制された。1100年にロベルト1世は公国へと発展した自領をフォルトレ(イタリア語版)を越えて拡大してボヴィーノとトッレマッジョーレを奪取した。 モリーゼの征服は不明瞭な状態で覆われている。主要な都市であるボヤーノはチィヴィターテの前にことによるとマテセ(イタリア語版)大山塊を取り巻いていたロベルト・グイスカルドの指導のもとで征服されたそうである。ボヤーノ伯領はロドルフォ・ディ・モリーゼに授けられ、その孫のユードはトーロとサン・ジョヴァンニ・イン・ガルドを征服することで東方へと拡大し、1105年にカプアの伯領であるヴェナフロ、ピエトラッボンダンテ、トリヴェントを吸収することで同時に西方へも拡大している。
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