そもそも討ち入りに参加しているか
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:32 UTC 版)
「赤穂事件」の記事における「そもそも討ち入りに参加しているか」の解説
今日、寺坂が姿を消したのは討ち入り後の引き上げの際だと考えられているが、事件当時の資料にはそもそも討ち入りに参加していないとするものもある。例えば、内蔵助、原惣右衛門、小野寺十内が連名で寺井玄溪に出した書状には (1)「寺坂吉右衛門の儀、十四日暁迄これ在るところ、彼屋敷へは相来たらず候、かろきものの儀、是非に及ばず候」 と、「十四日暁」まではいたが吉良邸にはいかなかったと書いてある。(「かろきもの」という発言は寺坂が四十七士の中で最も身分が低く唯一の足軽である事を指していると思われる)。なお当時の感覚では夜明けが来るまでを「十四日」とみなしていたので、「十四日暁」というのは今日の言葉でいえば十五日の夜明けの事である。 また原惣右衛門が堀内伝右衛門に対して「寺坂は討ち入り前までいたが討ち入り時に逐電した」という趣旨の事をいっており、やはり寺坂は討ち入りに参加していない事になる。 しかし八木哲浩は以上の発言は「誤解か作為のあるもの」(すなわち間違いか嘘を含んだもの)で実際には寺坂は討ち入りに参加しているのではないかと述べている。その証拠として八木哲浩は、『堀内伝右衛門筆記』において吉田忠左衛門が討ち入りについて述べている箇所の記述と寺坂が『寺坂信行筆記』で討ち入りについて述べている箇所の記述がほぼ同一である事を挙げている。『堀内伝右衛門筆記』と『寺坂信行筆記』は互いに相手を参照できない状況で書かれており、両者の内容が偶然一致する事はありえない。したがって、寺坂が討ち入りに参加して吉田忠左衛門とともに行動していたと解釈するのが正しいと思われる。 そして(1)の書状に関しては、寺坂が公儀の追及から逃れられるように討ち入りに参加しなかったと嘘をついたのではないかとしている。 また八木哲浩は寺坂が引き上げの早い段階で離脱したのだと推測しており、その理由として『寺坂信行筆記』には引き上げの記述が短い事と、寺坂の主人である吉田忠左衛門が仙石邸に行った事実が記載されていない事を挙げている。さらに『寺坂信行筆記』の「新大橋へ係り」という記述も理由として挙げている。というのも実際には引き上げの際に新大橋を通ってないし、仮にこの記述を「新大橋の近くを通った」と解するにしても今度は永代橋を渡った事を記述してないのがおかしい事になるからである。
※この「そもそも討ち入りに参加しているか」の解説は、「赤穂事件」の解説の一部です。
「そもそも討ち入りに参加しているか」を含む「赤穂事件」の記事については、「赤穂事件」の概要を参照ください。
- そもそも討ち入りに参加しているかのページへのリンク