すぎやまこういちとの出会い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 00:58 UTC 版)
「橋本淳 (作詞家)」の記事における「すぎやまこういちとの出会い」の解説
青山学院大学在学中から作詞を独学で学び、当時フジテレビ社員だった作曲家のすぎやまこういちに見出される。すぎやまとの出会いは、1961年(昭和36年)の大学4年生のとき、同級生に勧められてその兄の友人であるというすぎやまと青島幸男に会ってみた、というのが最初であった。すぎやまは初対面の橋本に対し、自作の楽曲に歌詞をつけるようと言い、それに応えたのが最初であったという。 橋本は同学在籍中にそのまますぎやまに弟子入りし、テレビ番組『ザ・ヒットパレード』(1959年 - 1970年)や『おとなの漫画』(1959年 - 1964年)の手伝いを開始した。半年後には、ジャッキー吉川とブルーコメッツと橋本に対し、すぎやまが「オリジナルの日本のポップスを」と発注し、番組で放送するための新曲を作らせた。1962年(昭和37年)3月の同学卒業後も、そのまますぎやまの元で番組に関わったが、その流れの中で生まれたのが、1966年(昭和41年)3月10日に発売されたジャッキー吉川とブルーコメッツ『青い瞳』(作曲井上忠夫)であったという。 シングルレコードとして発売された最初の作品は、その4か月前である1965年(昭和40年)11月にキングレコードからリリースされたボニージャックス『ボンド小唄』(作・編曲すぎやまこういち)であるとされ、公式なデビュー作は同年12月10日発売の紀本ヨシオ『だから泣かないで』のB面曲「涙のギター」(作・編曲すぎやまこういち)であるとされる。1967年(昭和42年)3月15日に発売されたジャッキー吉川とブルーコメッツ『ブルー・シャトウ』(作曲井上忠夫)は150万枚を売り上げ、同年末には第9回日本レコード大賞を受賞した。
※この「すぎやまこういちとの出会い」の解説は、「橋本淳 (作詞家)」の解説の一部です。
「すぎやまこういちとの出会い」を含む「橋本淳 (作詞家)」の記事については、「橋本淳 (作詞家)」の概要を参照ください。
- すぎやまこういちとの出会いのページへのリンク