加藤肩伍とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 人名 > 地図測量人名事典 > 加藤肩伍の意味・解説 

加藤肩伍(かとうけんご? 1762-1822)

 松前藩医、「松前地図」の作製者。
 加藤肩伍は昌平黌学んでロシア語フランス語興味持っていた。寛政4(1792)年9月 ロシアの陸軍中尉アダムス・ラクスマンは、天明2年(1782)に伊勢から江戸へ航海中に遭難しロシアにあった大黒屋光大夫らを帰還させる目的で、帆船エカテリーナ」でネモロ(根室)に来航した。 その際、加藤肩伍と鈴木松前藩応接役として対応した
 ラクスマン根室滞在中、加藤らは同一行が所持していた世界地図筆写し、とくに加藤ロシア人からロシア語指導受けた。そして、同地滞在中には魯西亜実記」もまとめた。
 
 寛政8年8月 海軍士官ロバート・ブロートン(1762-1821)を艦長とするイギリスプロヴィデンス号蝦夷地来航し蝦夷地周辺測量しながら奥羽南部まで南下したその後絵鞆(室蘭)に投錨した際に、松前藩から経験買われ加藤肩吾、そして高橋四郎工藤右衛門らが現地派遣された。そのとき日本側からラクスマン世界地図模写図を、英国側からはジエームス・クックの世界地図相互交換した。ブロートンには、「松前図」の筆写許した日本周辺測量続けたブロートンは、寛政9(1797)年7月 再び絵鞆に入港したそのとき加藤肩吾とブロートンとは国禁犯して地図交換したが、加藤その事実を口外しないようにブロートンに求めたのだという。
 その後加藤は、ブロートンとの内通疑われ嫌疑晴らすため上府することになる。しかし、彼のロシア対す知見地図知識逆に認められて、林大学頭手附き(外交顧問)として出仕することになる。
 それ以前加藤は、木版図「松前地図」(1804-1818年ころ)を作製しており、同図は松前藩の公式図として長く使われた。
画像
加藤肩吾蝦夷図1791ころ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

加藤肩伍のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



加藤肩伍のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
おもしろ地図と測量のページおもしろ地図と測量のページ
copyright (c) オフィス 地図豆 All right reserved.

©2024 GRAS Group, Inc.RSS