おもな業績と編著作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 09:07 UTC 版)
菅江真澄の顕彰、史料不足のためそれまで知られなかった佐竹氏入部以前の県南地方の中世史の解明、戦国大名小野寺氏の全容を把握したことは深澤多市の最大の学績といえる。 深澤は被災間もない1924年(大正13年)8月、『小野寺氏研究資料第1輯』を刊行し、1934年(昭和9年)10月に第3輯を出している。彼はこの年の12月に亡くなっているので、これが彼の絶筆となった。その間、深澤は横手町助役の立場にあって地元の大山順三が主筆を務める『羽後新報』に全270回にわたって『小野寺氏興亡』改め『小野寺盛衰記』を連載執筆している。これは今日書籍として刊行され、郷土史の研究に供されている。 また、秋田考古学会と横手郷土史編纂会の結成にも深くかかわった。 秋田考古学会は秋田県内の考古学研究と菅江真澄研究に大きな影響をおよぼした団体で、武藤一郎と深澤によって1925年(大正14年)にはじめられた。深澤が亡くなったときには会報の追悼号が出されている。 横手郷土史編纂会は、横手町出身の画家金沢秀之助が同郷の薬局経営者との「散歩の雑談」から生まれたという伝説をもつ団体で、実務面は深澤が中心となって横手中学校の国漢の教師であった細谷則理と『羽後新報』で健筆をふるっていた大山順三が誘い込まれてスタートした会であった。この編纂会は、1926年(大正15年)10月23日、東北帝国大学に移った喜田貞吉を迎えて横手町役場で発会式が開かれている。
※この「おもな業績と編著作」の解説は、「深澤多市」の解説の一部です。
「おもな業績と編著作」を含む「深澤多市」の記事については、「深澤多市」の概要を参照ください。
- おもな業績と編著作のページへのリンク