『花影』のモデルとしてとは? わかりやすく解説

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『花影』のモデルとして

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/29 03:41 UTC 版)

坂本睦子」の記事における「『花影』のモデルとして」の解説

報せ受けて駆けつけ大岡号泣していたというが、『中央公論8月号から、睦子モデルとしてに『花影』の連載始めた当初6月開始予定だったが2ヶ月遅れたという。そのエピグラフは、むしろ睦子引き受けなかった青山責めるものになっている1959年8月号で完結すると、『群像9月号の合評会で、河上徹太郎平野謙高見順がこれを評したが、河上自身愛人だった女だけに歯切れ悪く奇妙な座談会になっている。しかし『花影』は単行本になると、新潮社文学賞毎日出版文化賞受賞した1961年に「純文学論争」が起きると、高見順は「純文学過去と現在」(『新潮1962年2月号)で『花影』を批判し、「私はあの小説ヒロインモデルになつた女性を知つてゐる。小林秀雄も、いや彼のはうがもつと詳しく知つてゐる(略)河上徹太郎葉子モデルになつた女性を知つてゐる。ひよつとすると大岡昇平よりも、もつとよく知つてゐる。さうした河上徹太郎小林秀雄があの小説をかういふふうに褒めてゐるのはあくまで小説評である。(略)しかし大岡昇平彼の直接経験」を『花影』のやうな「詩的ヴィジョン」的小説書いたことに疑問がなかつたか。私は疑問呈したいのだ。(略)心の修羅場--小説としてはもつとも面白いところである。大岡昇平などの舌なめずりして書きたがるに違ひないところである。(略)どうしてこのもつとも面白ところを書かなかったのか。(略)しかしそれを書くことは、実生活の上でいろいろ差し障りがあつて、おそらく不可能だらう。だつたら、あの女性のことを何もわざわざ小説書くことはないのだと私は思ふ。(略)書けないのは当り前だ思ふが、ひとたび書くと心にきめた以上、あんな体裁のいい「ありきたり風俗小説なりかねない」やうな小説を書く手はないのだ。」と書いている。 『花影』のモデル大岡愛人であるとはっきり述べたのは、巌谷大四の『戦後日本文壇史』(1964)で、これは文壇周知のことだった。 大岡死後白洲は『いまなぜ青山二郎なのか』(1991)で『花影』を批判し睦子がちゃん描けていない肝心魔性出ていないとし、青山に対して大岡日ごろ恨み小説晴らしたようだ、とした。このあたりから、坂本睦子への関心高まり久世光彦睦子モデル改めて『女神』(2003)を書いた。 『花影』は1961年川島雄三監督池内淳子主演映画になっている

※この「『花影』のモデルとして」の解説は、「坂本睦子」の解説の一部です。
「『花影』のモデルとして」を含む「坂本睦子」の記事については、「坂本睦子」の概要を参照ください。

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