『弁論家の教育』の限界
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 04:22 UTC 版)
「クインティリアヌス」の記事における「『弁論家の教育』の限界」の解説
『弁論家の教育』にはこれまでいくつかの限界が指摘されてきた。その中には、あまりにも修辞学の修養に陥っているという指摘がある。クインティリアヌスの地位と職業ゆえに、外側から修辞学を見ることができなかったのである。したがって、クインティリアヌスがその価値についていくつかの疑いを思ってみることは難しかったのだろう。クインティリアヌスの道徳的に良い人間としての弁論家の概念もそれを表している—— クインティリアヌスにとっての修辞学はそれ自身の中に本質的に善であったのだ。それはさらに、クインティリアヌスの哲学観にも反映している。クインティリアヌスは「修辞学をすべての教育の基礎と考え、哲学はその優位性への挑戦だと見ていた」。 クインティリアヌスのもう一つの限界は、必然的に彼自身が自己の教育的伝統の犠牲者であることである。先述したように、クインティリアヌスは美辞麗句だらけの極度に修辞的な言葉の時代に生きた。その中でクインティリアヌスは、自然な言語を好み、また、言葉が教えられるやり方の中にある程度の単純さを投げこもうと試みたものの、流行には逆らえず、時代の不自然な言語を受け入れることを余儀なくされた。 最後に、ある人たちは、クインティリアヌスの理想とする弁論家の概念に疑問を持っている。『弁論家の教育』の中で指示される教育は、これまで存在しなかったし、おそらくこれからも現れないであろう人物を作ることを目論んでいた。クインティリアヌスはキケロの時代からの変化にわざと気付いていないように見える。もし居場所がどこにもないのなら、この完璧な弁論家は何のために作られるのであろうかというのである。
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