『多門伝八郎筆記』における逸話
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「忠臣蔵」の記事における「『多門伝八郎筆記』における逸話」の解説
浅野内匠頭の切腹に立ち会った多門伝八郎は、その時の事を記した『多門伝八郎筆記』を残しており、そこに書かれた逸話が忠臣蔵のドラマ等で描かれる事も多い。以下、『多門伝八郎筆記』に記載された逸話を紹介するが、この筆記は他の資料との比較により、創作が多分に含まれている事が判明しているので、以下の逸話の信憑性は不明である。 (多門が浅野を慰める)多門が浅野に殿中で刃傷におよんだ理由を聞いてみたところ、浅野は「私の遺恨」ゆえに刃傷におよんだものの、吉良に負わせた傷が浅手だったのが残念だと答えた。そこで多門が武士の情けで「相手は高齢だから養生はおぼつかないだろう」と慰めた所、浅野は喜んだ表情を見せた。 (多門が幕府の裁定に抗議)柳沢吉保の指示により浅野の即日切腹と吉良の無罪放免が決まった。これに憤慨した多門が裁定は「片落ち」である旨を抗議したところ、多門は柳沢の怒りを買い、目付部屋に軟禁された。 (多門が庭先での切腹に抗議)浅野の切腹場所を庭先の白洲にて行うよう庄田下総守が指示したものの、これに不満を持った多門は「庭先での切腹など一城の主にはあるまじき事」だという趣旨の抗議をし、立腹した庄田と掴み合いになりかけた。 (多門が片岡源五右衛門の今生の別れを許可)浅野の切腹の直前、赤穂藩士の片岡源五右衛門が今生の別れをするために会いに来た。多門は「明日は退役と覚悟いたし」て片岡を浅野に会わせた。しかしこの逸話の信憑性は疑わしく、切腹を行った田村家の記録にはそのような事は記載されていないうえ、『杢助手控』にはその期間は誰も立ち入りさせないよう厳命があったと記載されている。さらに赤穂側の資料にもこの件は記載されていない。切腹の翌日にあたる3月15日に片岡源五右衛門が多門を訪ねて上記の件の礼を言い、同年11月23日にも城内の「中の口」で多門に会って「もはや二君に交えず、この春から町人になる」という趣旨の事を言った。しかし一塊の浪人にすぎない片岡が中の口に入るつてはない。 (浅野内匠頭の辞世の句)浅野は切腹に際して辞世の句を詠み、その内容は「風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残りをいかにとか(や)せん」というものであった。この逸話も田村邸の記録や赤穂藩の記録になく、信憑性は疑わしい。 (浅野本家の抗議)3月15日に広島藩浅野本家の松平安芸守は切腹の場所が不当であると松平陸奥守と田村右京大夫に厳重に抗議した。この逸話は『冷光君御伝記』にすら記録がなく、信憑性は疑わしい。 なおドラマ等では、上述した片岡源五右衛門のエピソードに関して、浅野内匠頭と口をきかない事を条件として片岡を浅野に会わせるものも多い。
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