『吾妻鏡』の収集・校訂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/08/03 06:17 UTC 版)
弘詮は文人としても知られ、宗祇や猪苗代兼載といった当時一流の文化人と親交があった。弘詮はそれら文化人から「吾妻鏡と号す」「関東記録」があり「文武諸道の亀鑑」と聞いていたがなかなか目にすることが出来なかったという。 しかし文亀元年(1501年)頃、その写本42帖を手に入れることが出来、数人の筆生を雇い書き写させて秘蔵した。それは治承4年(1180年)から文永3年(1266年)と、現在知られる範囲ではあったが、尚その間に20数年分の欠落があった。 このため弘詮は諸国を巡礼する僧徒、または往還の賓客に託して、京はもちろん畿内・東国・北陸に至まで尋ねまわり、ようやくにして欠落分の内5帖を手に入れる。これを最初の書写と同じ形式で書き写させて全47帖とし、その目次も兼ねて年譜1帖を書き下ろし全48帖とした。大永2年(1522年)9月5日のことである。その後書きにはこう記されている。 望む人ありといえども、かつて披見を許すべからず。暫時たりといえども室内を出すべからず。いわんや他借書写においておや。もし子孫において、この掟に背かば、不孝深重の輩となすべし。 上記の大寧寺の変の後、難を逃れた隆康の次男・元弘は安芸の毛利元就を頼った。この際に弘詮の『吾妻鏡』も毛利氏に献上され、元就の次男・吉川元春の子孫に伝わることとなった。そのため、弘詮の『吾妻鏡』は今日では“吉川本”と呼ばれている。記事に3年分の欠損はあるが、現在では吾妻鏡の最善本と目されている。
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