『ベニスの愛』と『ある愛の詩』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/12 14:32 UTC 版)
「ステルヴィオ・チプリアーニ」の記事における「『ベニスの愛』と『ある愛の詩』」の解説
1970年にチプリアーニが作曲したベニスの愛(イタリア語版)の音楽が、同年にフランスの作曲家フランシス・レイが作曲したある愛の詩(1970年。同名映画のテーマ曲)に類似しているとして話題になった。 チプリアーニ側は、ベニスの愛の劇場公開がある愛の詩より半年早いことを根拠にしてレイ側に抗議した。しかし当時の映画雑誌スクリーンが報じるところによると、1971年6月にチプリアーニと弁護士がパリに渡ってフランシス・レイと会見すると、両者はあっさりと仲直りした。フランシス・レイはフランス生まれだが実は両親ともにイタリア人であり、同胞のチプリアーニと争うよりも仲良くしたいという意思からあっさりと謝罪。これに深く感動したチプリアーニはレイへの訴えを取り下げたとのことである。チプリアーニに対する慰謝料代わりとしてレイが作曲した栗色のマッドレー(1970年)のサウンドトラックの著作権を譲渡することで和解した。 1974年にチプリアーニが来日した際には、映画評論家の日野康一がインタビューを行いこの件に関して質問をしている。チプリアーニによると「カムレコードの弁護士が訴えて裁判にしようとすすめてきたけれども断った。ぼくの曲はフランシス・レイよりも6ヶ月早く完成していた。映画の(ヨーロッパ)公開も早い。第一、ベニスの愛はホ長調で、ある愛の詩はト長調で書かれている(と楽譜をサラサラと書き、最初の部分を自分で歌って聞かせた)。それにイタリアの著作権法では4小節までは盗作と認めない。」その結果、同業者がお互いに傷つけあうことはやめようと問題は当事者間で解決されたと語っている。
※この「『ベニスの愛』と『ある愛の詩』」の解説は、「ステルヴィオ・チプリアーニ」の解説の一部です。
「『ベニスの愛』と『ある愛の詩』」を含む「ステルヴィオ・チプリアーニ」の記事については、「ステルヴィオ・チプリアーニ」の概要を参照ください。
- 『ベニスの愛』と『ある愛の詩』のページへのリンク