『スジャヤ・ムラユ』の編纂とポルトガル勢力の駆逐
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「ジョホール王国」の記事における「『スジャヤ・ムラユ』の編纂とポルトガル勢力の駆逐」の解説
マラッカ王国の正統な後継者を自認するジョホールではマラッカ王国の年代記が編纂され、1612年に『スジャヤ・ムラユ(マレー語版)』として完成した。これは、「ブンダハラ(英語版)」(Bendahara)と称されるジョホール王家の世襲の宰相によってまとめられた。これに対し、イスカンダル・ムダ(英語版)を擁するアチェ王国は、1613年と1615年にジョホール王国に対し攻撃を加えた。 イスカンダル・ムダはスマトラ島の大部分を制圧し、一時はマレー半島のパハンも支配下に入れたが、1629年のムラカ遠征の際、ポルトガルとジョホールの連合によって、アチェ海軍は全滅を喫している。このころ、ジョホール王家は、配下のトルンガヌ(現マレーシア・トレンガヌ州)の王とパタニ王国の女王ラジャ・ウングの王女との婚姻を仲介している。パタニ王国(現在のタイ王国パッターニー県)は、マレー半島にあったマレー人のムスリム政権で東南アジアでイスラームを奉じた国家としては古い歴史を有していたが、北のシャム(アユタヤ王朝)からの脅威をかかえていた。パタニの王女ラジャ・クニンとトルンガヌ王ヤン・ディ・ペルタン・ムーダ・ジョホールとの婚礼が執り行われたのは1632年のことである。 イスカンダル・ムダが活躍していた時期のジョホール王国はアチェに対し守勢にまわらざるをえなかったが、1636年、イスカンダル・ムダが死去すると、ジョホールはオランダ東インド会社と協力して勢力の回復をはかった。1641年、オランダ勢力がポルトガル支配のムラカを包囲すると、ブンダハラ・スクダイ擁するジョホールはそれを援助し、ムラカのポルトガル要塞を陥落させてポルトガル勢力をムラカより駆逐した。オランダ軍は海と陸から、ブンダハラ・スクダイは陸上からムラカを攻撃したが、その時点で、町の人口はすでに飢饉と感染症(ペスト)のために激減していたといわれる。 この年、ジョホールはオランダの仲介によりアチェ王国とたがいを認め合う協定を結び、和解している。アチェ王国はパハンより撤退し、たびたびアチェとのあいだで覇権を競ったデリ王国(現インドネシア・北スマトラ州)とペラク王国へのジョホール王国の宗主権も復活させた。1642年、ジョホール王アブドゥル・ジャリル・シャー3世(マレー語版)はバトゥ・サワールに新都を建設した。
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