『スジャヤ・ムラユ』の編纂とポルトガル勢力の駆逐とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 『スジャヤ・ムラユ』の編纂とポルトガル勢力の駆逐の意味・解説 

『スジャヤ・ムラユ』の編纂とポルトガル勢力の駆逐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 15:02 UTC 版)

ジョホール王国」の記事における「『スジャヤ・ムラユ』の編纂とポルトガル勢力の駆逐」の解説

マラッカ王国正統後継者自認するジョホールではマラッカ王国年代記編纂され、1612年に『スジャヤ・ムラユ(マレー語版)』として完成した。これは、「ブンダハラ(英語版)」(Bendahara)と称されるジョホール王家世襲宰相によってまとめられた。これに対し、イスカンダル・ムダ(英語版)を擁するアチェ王国は、1613年1615年ジョホール王国対し攻撃加えた。 イスカンダル・ムダはスマトラ島大部分制圧し一時マレー半島パハン支配下入れたが、1629年ムラカ遠征の際、ポルトガルジョホール連合によって、アチェ海軍全滅喫している。このころジョホール王家は、配下のトルンガヌ(現マレーシア・トレンガヌ州)の王とパタニ王国女王ラジャ・ウング王女との婚姻仲介している。パタニ王国現在のタイ王国パッターニー県)は、マレー半島にあったマレー人ムスリム政権東南アジアイスラーム奉じ国家としては古い歴史有していたが、北のシャムアユタヤ王朝)からの脅威かかえていた。パタニ王女ラジャ・クニンとトルンガヌ王ヤン・ディ・ペルタン・ムーダ・ジョホールとの婚礼執り行われたのは1632年のことである。 イスカンダル・ムダが活躍していた時期ジョホール王国アチェ対し守勢にまわらざるをえなかったが、1636年、イスカンダル・ムダが死去すると、ジョホールオランダ東インド会社協力して勢力回復はかった1641年オランダ勢力ポルトガル支配ムラカ包囲すると、ブンダハラ・スクダイ擁するジョホールはそれを援助しムラカポルトガル要塞陥落させてポルトガル勢力ムラカより駆逐したオランダ軍は海と陸から、ブンダハラ・スクダイは陸上からムラカ攻撃したが、その時点で、町の人口はすでに飢饉感染症ペスト)のために激減していたといわれるこの年ジョホールオランダ仲介によりアチェ王国とたがいを認め合う協定を結び、和解している。アチェ王国パハンより撤退し、たびたびアチェとのあいだで覇権競ったデリ王国(現インドネシア北スマトラ州)とペラク王国へのジョホール王国宗主権復活させた。1642年ジョホール王アブドゥル・ジャリル・シャー3世マレー語版)はバトゥ・サワールに新都建設した

※この「『スジャヤ・ムラユ』の編纂とポルトガル勢力の駆逐」の解説は、「ジョホール王国」の解説の一部です。
「『スジャヤ・ムラユ』の編纂とポルトガル勢力の駆逐」を含む「ジョホール王国」の記事については、「ジョホール王国」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「『スジャヤ・ムラユ』の編纂とポルトガル勢力の駆逐」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「『スジャヤ・ムラユ』の編纂とポルトガル勢力の駆逐」の関連用語

『スジャヤ・ムラユ』の編纂とポルトガル勢力の駆逐のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



『スジャヤ・ムラユ』の編纂とポルトガル勢力の駆逐のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのジョホール王国 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS