「関東防空大演習を嗤ふ」
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「桐生悠々」の記事における「「関東防空大演習を嗤ふ」」の解説
1933年(昭和8年)8月11日、東京市を中心とした関東一帯で8月9日に行われた第1回関東地方防空大演習を批判して、悠々は社説「関東防空大演習を嗤ふ」を発表する。同文中で悠々は、敵機の空襲があったならば木造家屋の多い東京は焦土化すること、被害規模は関東大震災に及ぶであろうこと、空襲は何度も繰り返されるであろうこと、灯火管制は暗視装置や測位システム、無人航空機などの近代技術の前に意味がないばかりか、パニックを惹起し有害であること等、12年後の日本各都市の惨状をかなり正確に予言した上で、「だから、敵機を関東の空に、帝都の空に迎へ撃つといふことは、我軍の敗北そのものである」「要するに、航空戦は...空撃したものの勝であり空撃されたものの負である」とした。この言説は陸軍の怒りを買い、長野県の在郷軍人で構成された信州郷軍同志会が『信濃毎日新聞』の不買運動を展開したため、悠々は同9月に再び信濃毎日の退社を強いられた。だが論旨は「水を漏らさぬ防禦方法を講じ、敵機をして、断じて我領土に入らしめてはならない。」「空撃に先だって、これを撃退すること、これが防空戦の第一義でなくてはならない。」と重ねて書いているように今日にも通ずる至極まっとうなものであった。
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