「末廣亭」・「末廣」の呼称
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 02:31 UTC 版)
「人形町末廣」の記事における「「末廣亭」・「末廣」の呼称」の解説
当席の呼称は「人形町末廣」「人形町末廣亭」「末廣亭」などしばしば混乱が見られる。以下、当席の呼称の推移と、関連する「新宿末廣亭」についても合わせて記す。 「人形町末廣」と「新宿末廣亭」は元々は人形町・新宿共に席名の頭に地名を付す事なく、単に「末廣亭」と称していた。人形町末廣の古い造作のテケツ(チケット売り場)の明り取りのくもりガラスには横書きで右側から「亭廣末」と明り取りのガラスに記してある。 新宿では1951年(昭和26年)3月の株式会社新宿末廣亭設立時に「株式会社新宿末廣亭」の会社名を登記した。 人形町は1960年(昭和35年)5月下席のプログラムで運営者自らがタイトルとして「人形町末廣番組」と記している。ただし、1970年(昭和45年)1月のプログラムでもタイトルとして「人形町末廣番組」と記しながら表面記載の鮨店の広告に「末広亭向ひ小路」「末広亭に御注文下されば座席迄御届け致します」、裏面記載の業務案内には「末広亭事務所」と記す呼称と表記の混乱はある。文化デジタルライブラリー 寄席に入る 2015年3月7日閲覧。掲載の1970年(昭和45年)1月中席と1966年(昭和41年)3月下席のビラには「人形町末廣」としてある。 1969年(昭和44年)初席の新宿末廣亭のビラには「新宿末廣亭」と記してあり、1970年(昭和45年)1月中席の新宿末廣亭のビラにも「新宿末廣亭」と記してある。 かつていわゆる禁演落語を「はなし塚」に奉納した台東区寿の長瀧山本法寺に落語家や落語関係者によって1954年(昭和29年)に奉納された落語家や演芸場の名称が彫り込んである石塀にはそれぞれ「人形町末廣」「新宿末廣亭」と記してある。 上記の典拠によれば、どう遅くとも昭和20年代半ば以降には双方とも商号を「人形町末廣」「新宿末廣亭」と明確に分けていた事が見てとれる。
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