「姫街道」の呼称の定着
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安政元年(1854年)の大地震の後には、浜名湖の今切の渡しが停止して東海道の交通が麻痺したため、大名も本坂道へ迂回し、本坂越の交通量が増加した。翌安政2年(1855年)に山形県から母を伴って善光寺や伊勢神宮に参詣し、全国各地を半年かけて旅行した清河八郎は、旅日記『西遊草』の浜名郡三ケ日の項に、「此所は秋葉山へ往来の宿にて、往来もややあり。且昨年よりして大名も新井を通らず、まま此処より上下するありとぞ。すべて御姫様海道と名づけて、格別難儀にもあらざる道なり。」として、本坂越が「御姫様海道」と呼ばれており、40歳の母を連れた清河にとっても「特に大変な道でもなかった」と記している。 『浜松市史』第2巻は、安政3年(1856年)の絵図では、浜松宿から三方原追分に至る道を「姫街道」、安間一里塚から市野を経て三方原追分に至る道を「市野道」と記していた、としているが、この絵図は行方不明で未確認とされている。 万延元年(1860年)に五雲亭貞秀が描いた『東海道五十三次勝景』の中に「東海道五十三次之内浜松順路並姫街道木賀遠望」と題した浮世絵があり、同じ頃作成された「秋葉山参詣道程図」にも「姫様街道」と記載があることから、この頃には「姫街道」の呼称が定着していたとみられている。
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