「姫街道」の由来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 01:35 UTC 版)
「姫街道」の呼称は、気賀関所 (2016a)は、宝永4年(1707年)の地震の後、本坂越を利用する公家の奥方や姫君・女中衆が増加に伴い、18世紀初めの享保の頃から、「姫街道」と呼ばれるようになったという。 万治元年(1658年)の『東海道名所記』や寛政9年(1796年)の『東海道名所図絵』、1802年の『東海道中膝栗毛』などでは、「本坂越」、「本坂道」、「二見の道」などの名称が用いられていて、江戸時代の公文書に「姫街道」の呼称はみられない。 江戸時代末期になって、民間文書に姫の名を冠した呼称が登場するため(「姫街道」の呼称の定着も参照)、「姫街道」の呼称はこの頃に定着したとみられている 「姫街道」と呼ばれるようになった理由については、江戸時代、新居(今切)の関所を避けた女性が本坂越を選んだため(説1)で、女性が新居を避けた理由については、新居関所の女性に対する取締りが厳しかった(入り鉄砲に出女の詮議が厳しかった)ためとする説、新居‐舞阪の海がよく荒れ、女性が渡海を怖がったためとする説、そして「今切」が「縁切れ」に通ずるため縁起が悪く、不吉な感じを与えるからとする説がある。 その他に、古代から中世にかけて栄えた街道のため「古い街道」という意味で「鄙(ひね)街道」と呼ばれていたのが「姫」(ひめ)に転訛したとする説、「姫」は愛宕山を真っ直ぐに登る表坂を「男坂」と呼び、遠回りではあるが傾斜の緩い脇坂を「女坂」と呼ぶように、本街道の半分の規格で造られた脇道を「女道」「姫道」として「姫街道」と呼ぶようになったとする説、そして、本坂峠の麓で父の墓守をしていた橘逸勢の娘の妙冲や、平宗盛の寵愛を振り切って天竜川畔で余生を過ごした熊野御前、近くは8代将軍吉宗の母が大勢の人足を引き連れて通行したことなど、女性のイメージが強く残る街道だったため、特に「姫」の名で呼ばれたとする説がある。
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