「女帝」マリア・テレジア
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「ヨーロッパの祖母」の記事における「「女帝」マリア・テレジア」の解説
マリア・テレジアは、神聖ローマ帝国の皇后であり「女帝」ではない。しかし、ハプスブルク家の家督を相続したため、王位・称号を多数有し、事実上の女帝として統治した。 マリア・テレジアは、子・孫の世代に多数の君主・妃を出し、またそれぞれの子孫同士でも婚姻が結ばれているため、ヨーロッパの曾祖母(英語:Great-Grandmother of Europe)とも呼ばれる。
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「女帝」マリア・テレジア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 01:07 UTC 版)
「マリア・テレジア」の記事における「「女帝」マリア・テレジア」の解説
一般に「女帝」と呼ばれ、実態も女帝そのものであったが、実際にはローマ皇帝に即位したことはない。前述のようにハプスブルク家の領国と家督を相続したのはマリア・テレジアであるため、彼女の肖像画にはローマ皇帝の帝冠が添えられている場合が多く、当時も少なくとも領国内では「女帝」視されていた。正式には皇后でしかない彼女がこのように扱われる理由としては、次のような点が考えられる[誰?]。夫である皇帝がフランス国境沿い(現フランス領)の小国ロレーヌ公国出身の養子的存在であり、ハプスブルク家領国内において実際の政治的権力をほとんど持たなかったこと。 帝位は夫のものであったが、ハプスブルク家当主が継承してきたオーストリア大公の位には彼女が就いていたこと。つまり、実質的に国家の実態を失っていた神聖ローマ帝国よりも、その盟主的位置にある(法的には国家ではなくハプスブルク家を媒介とする曖昧な存在だが)オーストリアおよびハプスブルク家支配地域のほうが事実上の政体(ハプスブルク君主国)と見なされていた。したがって、兼位しない場合は皇帝位は単なる国家連合議長にすぎず、オーストリア大公位の方が遥かに政治的権限が強かったこと。 このためフランツは夫君、王配としてのイメージで捉えられ、マリア・テレジアの女帝的性格(実際には皇后・女王)が広まったといえる。百科事典などにおいてもマリア・テレジアは伝統的に「女帝(神聖ローマ女帝)」として掲載される場合が非常に多く、日本国外でも同じ傾向にある。
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