「中国」という名称
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 06:29 UTC 版)
明を征服した後、清は自国をドゥリムバイ・グルン(dulimbai gurun)とも呼ぶようになった。満洲語で「中国」の意味であり、「ドゥリムバイ(dulimba-i)」が「中の」で「グルン(gurun)」が「国」である。清はさらに、漢文と満洲語における「中国」を自国の領土、すなわち現代の新疆、満洲、モンゴル、チベットなどの地域を含む領土と同義であるとした。これは中国が漢人の地域のみを表すのではなく、漢人と非漢人の両方で構成される多民族国家であるという考えを意味した。これ以降、清は公文書、国際条約、外交などで自国を指す言葉として「中国」を用い、中国の文(ドゥリムバイ・グルン・イ・ビトヘ、dulimba-i gurun-i bithe)は漢語や満洲語、モンゴル語を指し、中国人(ドゥリムバイ・グルン・イ・ニャルマ、dulimba-i gurun-i niyalma)という用語は、清の満洲人やモンゴル人、漢人の臣民全てを指した。 清はハルハや内モンゴル、オイラトなど国外の民族を、国内の漢人と統一して清の支配を受ける「一家」と見なす思想を広め、その思想を示すために「中外一家」や「内外一家」といった語彙を使用した。また、1727年に清とロシア帝国の間でキャフタ条約が締結されたが、逃亡者の相互引き渡しに関する条項において清の臣民は「中国(ドゥリムバイ・グルン)人民」と呼ばれた。清の官僚トゥリシェン(英語版)はヴォルガ・トルグート部に派遣され、部族長アユーキ・ハーン(英語版)と会談した。トゥリシェンが当時を記録した『異域錄(中国語版)』(1723年)では、トルグートがロシア人と似ていないものの中国人(満洲人)には似ていると記述されている。1759年に清・ジュンガル戦争が終結してジュンガルが敗北を喫したとき、清はジュンガルの領土がドゥリムバイ・グルンの領域に併合されたと満洲語の記念碑で宣言した。
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