「ヤマト王権」と邪馬台国の関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 13:49 UTC 版)
「ヤマト王権」の記事における「「ヤマト王権」と邪馬台国の関係」の解説
吉村武彦は、『岩波講座 日本通史第2巻 古代I』のなかで、「崇神天皇以降に想定される王権」を「大和王権」と呼称しており、初期大和王権と邪馬台国の関係について「近年の考古学的研究によれば、邪馬台国の所在地が近畿地方であった可能性が強くなった。しかしながら、歴史学的に実証されたわけではなく、しかも初期大和王権との系譜的関係はむしろ繋がらないと考えられる」と述べている。 吉村は、「古墳の築造が政権や国家の成立を意味するのかどうか、問題をはらんでいる」と指摘し、古墳の所在地に政治的基盤を求める従来の視点には再検討が必要だと論じている。その論拠としては、記紀には王宮と王墓の所在地が離れた場所にあることを一貫して記しており、また、特定地域に影響力を行使する集団の首長が特定の小地域にしか地盤をもたないのだとしたら、記紀におけるような「歴代遷宮」のような現象は起こらないことを掲げており、むしろ、大和王権は特定の政治的地盤から離れることによって、成立したのではないかと推測する。 前方後円墳の出現時期の早い遅いにかかわらず、大和王権の成立時期ないし行燈山古墳(現崇神陵)の出現時期とは数十年のズレがあるというのが、吉村の見解である。上述の山尾の指摘とあわせ、今後検討していくべき課題といえる。
※この「「ヤマト王権」と邪馬台国の関係」の解説は、「ヤマト王権」の解説の一部です。
「「ヤマト王権」と邪馬台国の関係」を含む「ヤマト王権」の記事については、「ヤマト王権」の概要を参照ください。
- 「ヤマト王権」と邪馬台国の関係のページへのリンク