「パヴロバ・バレエ団」の発足と七里ガ浜への移転
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「ナデジダ・パヴロワ (1905年生のバレエダンサー)」の記事における「「パヴロバ・バレエ団」の発足と七里ガ浜への移転」の解説
3人は沢靜子の斡旋によって、日本での生活の立て直しを図った。最初に住まいとしたのは、沢の知人が材木座に所有していた別荘で、1年ほどここを拠点として暮らしていた。その次に、材木座からほど近い名越に転居した。 当時の名越は、文士村として知られていて、沢と近しい人物の別荘があった。その別荘は広い敷地と間取りを備え、まさしくバレエの稽古場に好適な建物だった。やがて沢の尽力により、「パヴロバ・バレエ団」が発足した。発足時のメンバーはエリアナの内弟子たちで、平均年齢はほぼ20歳という若いバレエ団だった。パヴロバ・バレエ団は小規模なカンパニーのため演目はすべて小品であり、『白鳥の湖』などの全幕バレエは上演できなかった。 記録に残っているパヴロバ・バレエ団の初公演は、1925年のことである。当時、新宿に「新宿園」という遊園地があって、その敷地内に3つの劇場が存在していた。そのうちの「白鳥座」という名の劇場がバレエ団の本拠地となった。この年の5月には、ウラジオストク帰りの服部智恵子(当時の姓は笹田)がエリアナのもとを訪ね、バレエ団の一員に加わっている。彼女はロシア語が堪能で、一家やバレエ団の力となった。服部の他にも、島田廣、貝谷八百子、東勇作、橘秋子など、後に日本バレエ史の礎を築く人々がエリアナの門下生となった。新宿園での活動は、1926年の経営悪化による閉園で早くも停止となった。 1926年秋、パヴロバ・バレエ団は内弟子たちとともに七里ヶ浜の峯ケ原という場所へ移転した。移転の理由は、ナタリアとナデジダが結核を発病したためであった。この住居も借家だったため、一家は独立したバレエスクールの建設を目指すようになった。 資金はエリアナの公演収入で賄い、1928年(1927年または1929年説あり)にはビザンチン風の住居兼バレエスクールの建物が完成した。正確な数値は不明ではあるが、敷地600坪に建物80坪であったという。エリアナが公演などで不在のときには、健康を回復したナデジダがレッスンの指導にあたっていた。
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