「ハンサム・ダン」の登場
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「ハンサム・ダン」の記事における「「ハンサム・ダン」の登場」の解説
1880年代後期に、プリンストン大学とハーバード大学は、「トラ」と「オレンジマン」をそれぞれのフットボールクラブのマスコットとしてすでに採用していた。1889年に、イギリス人でイェール大学のフットボール部員だったアンドリュー・グレーヴスは、1頭のブルドッグがニューヘイブンの鍛冶屋の前に座っているのを見かけた。グレーヴスはそのブルドッグを50ドルで買いたいと申し出たが、鍛冶屋は「75ドル」と返答した。 グレーヴスと鍛冶屋は65ドルで話をつけ、ブルドッグはグレーヴスのものとなった。彼はブルドッグを身ぎれいにしてやり、「ハンサム・ダン」と命名した。すぐにハンサム・ダンはグレーヴスの後を追いかけて大学構内を歩きまわるようになり、スポーツの行事を含むさまざまな場面に顔を出した。イェール大学の学生たちは、早速ハンサム・ダンを大学のマスコットに採用することにした。 グレーヴスが卒業して故郷のイングランドに戻った後、ハンサム・ダンはグレーヴスの弟とともにイェール大学に残った。ハンサム・ダンは、当時の評論家によると「ワニとツノガエルが交わって生まれたとしか思えない」という奇怪な容貌だったが体つきは筋骨隆々でたくましく、アメリカ合衆国やカナダで開催されたドッグショーで少なくとも30回にわたって1位を獲得した。 ハンサム・ダンは普段人々や子供たちには寛大にふるまったが、深紅色の衣類や飾りを身に着けている人やトラ(これらはイェール大学のライバル校であるハーバード大学及びプリンストン大学のシンボルである)に猛烈な敵意を示した。ハンサム・ダンのこの振る舞いは、イェール大学のファンを大いに喜ばせていた。 ハンサム・ダンは1897年にかつての飼い主であるグレーヴスのもとに行くために大西洋を渡り、1898年に死亡した。その剥製は、イェール大学のペイン・ホイットニー・ジムナジウム(en)に保存され、一般公開されている。なお、飼い主のグレーヴスは1948年2月18日に結核で死去している。
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