金峯山寺 境内

金峯山寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/14 15:57 UTC 版)

境内

本堂(蔵王堂)細部
本堂(蔵王堂)平面図

吉野ロープウェイの吉野山駅を出てしばらく歩くと金峯山寺の総門である黒門があり、そこから旅館、飲食店、みやげ物店などの並ぶ上り坂の参道を行くと、途中に銅鳥居(かねのとりい)がある。吉野山駅から徒歩10分ほどのところに仁王門、その先の小高くなった敷地に本堂(蔵王堂)が建つ。

  • 本堂(蔵王堂、国宝) - 山上ヶ岳の大峯山寺本堂(「山上の蔵王堂」)に対し、山下(さんげ)の蔵王堂と呼ばれる。屋根は入母屋造檜皮葺き。2階建てのように見えるが構造的には「一重裳階(もこし)付き」である。豊臣秀吉の寄進で再興されたもので、扉金具の銘に天正19年(1591年)とある(本尊の胎内銘には天正18年とあるので、工事自体はそれ以前からなされていた)。高さ34メートル、奥行、幅ともに36メートル。木造の仏堂としては全国屈指の規模(特に高さ)の建物である。内部の柱には、原木の曲がりを残した自然木に近い柱が使われていることが特色で、ツツジ(またはチャンチン)、などと称される柱が用いられている。内陣には巨大な厨子があり、本尊として3体の蔵王権現立像(秘仏)を安置する。金峯山修験本宗の総本山であることもあって、現在では常に香が焚き込められ、近年では夜間参拝の機会も設けられ、いにしえを偲ばせる独特の宗教空間を形成している。
平面構成は、桁行(正面)5間、梁間(奥行)6間の身舎(もや)の周囲に1間の裳階をめぐらした形式になる(ここでいう「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を表す用語)。身舎の正面は5間とも板扉を設け、その手前(裳階部分)の1間通りは扉や壁を設けない吹き放ちとする。堂内は板扉で前後に仕切り、その前方を外陣、後方を内陣とする(平面図参照)[4]
  • 蔵王権現本地堂 - 蔵王堂と渡り廊下で繋がっている。食堂の跡地に建てられている。
  • 鐘楼
  • 本坊 - 智泉閣と呼ばれる。1924年大正13年)築。
  • 仁王門(国宝) - 「二王門」ともいう。蔵王堂の北側に位置する入母屋造、本瓦葺きの二重門(二重門とは2階建て門で、1階と2階の境目にも屋根の出をつくるものを指す)。軒先に吊るしていた風鐸(ふうたく)の銘から室町時代康正2年(1456年)の再興とわかる。本堂が南を正面とするのに対し、仁王門は北を正面とし、互いに背を向けるように建っている。これは、熊野から吉野へ(南から北へ)向かう巡礼者と吉野から熊野へ(北から南へ)向かう巡礼者の双方に配慮したためという。門の左右に安置する像高約5メートルの金剛力士(仁王)像は延元4年(1339年)、仏師康成の作で重要文化財に指定されている。2018年より2028年完成を目指して大修理が進められている。
  • 観音堂 - 室町時代建立。本尊は十一面観音立像。脇に安置される阿難尊者立像と迦葉尊者立像は廃寺となった世尊寺に安置されていたと伝えられる。
  • 愛染堂 - 明和7年(1770年)に経蔵として建立され、その後護摩堂となっていたが、1983年昭和58年)に蔵王堂から愛染明王を移して愛染堂とした。愛染明王は廃寺となった安禅寺に安置されていたものである。
  • 四本桜 - 蔵王堂前の広場に石柵で囲まれた一廓があり、4本の桜が植わっている。ここは、元弘3年(1333年)、鎌倉幕府軍に攻められた大塔宮護良親王が陥落前に最後の酒宴を催した故地とされている。石柵内に立つ銅燈籠は文明3年(1471年)の作で重要文化財に指定されている。
  • 威徳天満宮 - 祭神:菅原道真天徳3年(959年)9月5日鎮座。慶長年間(1596年 - 1615年)に豊臣秀頼によって再建される。
  • 神楽殿
  • 久富大明神
  • 吉冨稲荷大明神
  • 南朝妙法殿 - 八角三重塔1958年(昭和33年)建立。南朝後醍醐天皇後村上天皇長慶天皇後亀山天皇と南朝の忠臣達、太平洋戦争での戦死者などの霊を祀っている。ここはかつて後醍醐天皇が行在所とした実城寺の跡地であり、実城寺の本尊と伝えられる奈良県指定有形文化財の木造釈迦如来坐像が安置されている。
  • 仏舎利宝殿 - 1967年(昭和42年)11月24日にインド政府から贈呈された仏舎利を祀る。
  • 役行者像 - 銅像。1951年(昭和26年)建立。
  • 脳天大神龍王院 - 1951年(昭和26年)建立。
  • 二天門跡 - 蔵王堂の南正面には現在は門がないが、かつてはここに正門であった二天門があった。信濃国出身の武士であった村上義光は、元弘3年(1333年)、護良親王の身代わりとしてこの二天門の楼上で自害したと伝えられる。門跡には「村上義光公忠死之所」と記した石柱が立つ。
  • 後醍醐天皇導稲荷社
  • 黒門 - ケーブル吉野山駅から徒歩数分のところに建つ黒塗りの高麗門で、金峯山寺の総門である。現存する門は1985年(昭和60年)の再興。
  • 銅鳥居(重要文化財) - 銅鳥居と書いて「かねのとりい」と読む。聖地への入口、俗界と聖地の境界を象徴する建造物である。吉野から大峯山(山上ヶ岳)までの修行道には発心門、修行門、等覚門、妙覚門という、悟りへの4つの段階を象徴した門が設定されているが、そのうちの「発心門」にあたるのがこの鳥居である。鳥居の柱が蓮台の上に立っているのは、神仏習合の名残りである。東大寺大仏を鋳造した際の余りの銅で造ったという伝承があるが、現存するものは室町時代の再興である。

注釈

  1. ^ 附指定の像内納入品は2016年追加指定[5]
  2. ^ 近年では、吉野・大峯の世界遺産登録を記念して、2004年(平成16年)7月から翌年6月まで開帳されたほか、2007年(平成19年)10月4日 - 8日にも開帳された。また、平城遷都1300年祭を記念して2010年(平成22年)9月1日から12月9日まで、「国宝仁王門大修理勧進」として2012年(平成24年)3月31日から6月7日まで開帳された。その後もたびたび開帳されている。
  3. ^ 像内納入品のうち、経典4巻、墨書紙片、竹製筒は2018年追加指定[7]
  4. ^ 2019年の官報告示で像内納入品の員数が以下のように訂正された。(変更前)「杮経(残欠共)2束、582枚」→(変更後)「杮経(残欠共)2束、580枚」[9]

出典

  1. ^ 張洋一「東京国立博物館保管「京都大仏雛形」について 寛文期方広寺大仏の再興に関連して」(『Museum』554号、1998年6月) p.21
  2. ^ 文化遺産データベース 木造蔵王権現立像
  3. ^ a b 『本居宣長全集』第18巻 1973年 菅笠日記 明和9年3月8日の条
  4. ^ 『週刊朝日百科 日本の国宝』10号(朝日新聞社、1997)、pp.309 - 312
  5. ^ 平成28年8月17日文部科学省告示第116号)
  6. ^ 「金剛蔵王権現」(金峯山寺サイト)
  7. ^ 平成30年10月31日文部科学省告示第209号
  8. ^ 令和4年3月22日文部科学省告示第43号で名称変更・員数訂正。
  9. ^ 令和元年7月23日文部科学省告示第31号
  10. ^ 平成26年8月21日文部科学省告示第105号
  11. ^ “奈良・金峯山寺は「鬼も内」 蔵王堂で節分会”. 岐阜新聞. (2016年2月3日). オリジナルの2016年2月3日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/FoGoI 2020年5月2日閲覧。 






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