通州事件 証言

通州事件

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証言

安藤証言

生存者であった同盟通信記者安藤利男は1937年10月、「虐殺の巷通州を脱出して」を日本外交協会で発表し、同年『通州兵変の真相』(森田書房)を刊行した[4]。ただし、彼自身は7月29日処刑のために他の者多数と屋外に連れ出され、逃げろという他の女性からの掛け声で後も見ずにいっせいに逃げたため、脱出直後の証言では、安藤自身は数名の死体を見たというだけである[62][63]

戦後、東京裁判で旧軍人らによる通州事件における残虐行為の証言がなされた後のことであるが、安藤は1955年昭和30年)『文藝春秋』に「通州の日本人大虐殺」と題して、彼自身の回想を発表した[64][63]

前日28日夕刻まで冀東政府の建物に出入りしていたが、ラジオは国民党軍の勝利を報じていたため、役人らは「合言葉は、『勝』といえば『利』だな」と語り合うなどざわめき立ち、何か起きそうな剣呑な雰囲気だったという(安藤の証言は、冀東政府の役人らも実際には日本側に相当な反感を抱いていたことを窺わせる)。翌午前4時頃銃声が始まり、飛び起きたが、そのときはまだ保安隊の寝返りとは分からなかった。8時頃旅館のボーイが駆け込んで、特務機関のあたりで日本人が多数殺されているといったのが第一報だった。銃声が近づき、屋根裏に隠れ始めたが、じきに屋内でも銃声が響き、暴徒が殺害や略奪を始めていた。保安隊は最初は声を嗄らして制止していたが、発砲してまでは止めることなく、やがて保安隊も略奪を始め、彼らが去ると今度は殷女耕長官の衛兵ら(笠原は警衛大隊とする[42])が来て、家捜しされ、安藤らも発見された。結局、男6名ほどが麻縄で腕を数珠つなぎにされ、女性は後ろについて行く形で、保安隊に引き立てられた。その際、旅館の女中ら3~4名の死体を見ている。はじめ、既に一群の日本人が集められていた政府建物の一角に連れ込まれ、後からやって来る日本人もいて、80~100名くらいになり、おそらくこれが一番大きな虐殺被害者の集団だったろうとしている。その後、北門近くの城壁内側の処刑場所まで連れて行かれたところで土壇場で脱出に成功した。なお、戦前のものも含めて、安藤記者の回想談には、保安隊らから略奪はあったものの殊更な暴行や凌辱行為があったというものはない[63][65]

脱出後は、ときには出逢った中国人らに持ち物を投げ捨てて与えるかのようにして北京まで逃げている。[66]

安藤は、反乱の原因を第一に保安隊への誤爆事件をあげ、少なくともこれが保安隊にふんぎりをつけさせたと見ている。また、日本に協力した冀東政府の殷女耕が最終的に国民党政府に親日のかどで処刑されたことに同情、また、通州事件も大きく見れば、当時の日本の中国側を思いやらない不明な政策と強硬方針が禍いしたものとしている。[63]

村尾大尉夫人の証言

東京日日新聞1937年7月31日付号外「惨たる通州叛乱の真相 鬼畜も及ばぬ残虐」との見出しで報道した[4]。その中で冀東政府長官秘書孫錯夫人(日本人)と一緒に逃げた保安総隊顧問村尾昌彦大尉夫人の証言が紹介された。

保安隊が叛乱したので在留日本人は特務機関や近水楼などに集まって避難しているうち29日の午前2時頃守備隊と交戦していた大部隊が幾つかに分れてワーツと近水楼や特務機関の前に殺到して来て十分置きに機関銃と小銃を射ち込みました。近水楼の前は日本人の死体 ママ が山のやうに転子がってゐます、子供を抱へた母が二人とも死んでゐるなど二た眼と見られない惨状でした、私達はこの時家にゐました、29日午前2時頃保安隊長の従卒が迎へに来たので洋服に着かえようとしたところその従卒がいきなり主人に向かってピストルを一発射ち主人は胸を押へ「やられた!」と一声叫ぶなりその場に倒れました。私は台所の方に出て行って隠れていると、従卒がそこらにあるものを片っ端から万年筆までとって表へ行きました、そのうちに外出してゐたうちのボーイが帰って来て外は危ないといふので押入の上段の蒲団のなかにもぐってゐたところさきの従卒が十人ばかりの保安隊員を連れて家探しをして押入のなかを捜したが上段にゐた私には気づかず九死に一生を得ました、家のなかには主人の軍隊時代と冀東政府の勲章が四つ残ってゐました、それを主人の唯一の思ひ出の品として私の支那鞄の底に入れ主人の死体には新聞をかけて心から冥福を祈りボーイに連れられて殷汝耕長官の秘書孫一珊夫人の所へ飛び込み30日朝まで隠れてゐましたが、日本人は鏖殺(みなごろ)しにしてやるといふ声が聞えいよいよ危険が迫ったので孫夫人と二人で支那人になり済まし双橋まで歩きやっとそこから騾馬に乗ったが日本人か朝鮮人らしいと感づかれて騾馬曳きなどに叩かれましたが絶対に支那人だといひ張ってやっと30日午後朝陽門まで辿りつきましたが、門がしまってゐたので永定門に廻りやっと入り30日夜11時日本警察署に入ることが出来ました、冀東銀行の顧問三島恒彦氏が近水楼で殺され冀東政府の島田宣伝主任等も虐殺されたらしく近水楼にゐた日本人は殆どころされてゐるでせう、昔シベリアの尼港惨劇も丁度このやうな恐ろしさであったらうと思ひます。叛乱した張隊長は毎日家に遊びに来て「好朋友(ハオポンユウ)、好朋友」などといひ非常に主人と仲良しだったのにこんなことになるとは支那人ほど信じ難い恐ろしい人間はないでせう、主人の遺骸は必ず私の手で取りに行きます。 — 保安総隊顧問村尾昌彦大尉夫人、東京日日新聞1937年7月31日付号外「惨たる通州叛乱の真相 鬼畜も及ばぬ残虐[4]

日本軍将校の東京裁判における証言

極東国際軍事裁判(東京裁判)では、弁護側は通州事件を取り上げ、日本側の行為の弁明に用いようとした[54]。1947年4月25日に通州事件に関連する14件の証拠が却下され、1件が撤回され、1件が未提出であった。このうち通州事件に直接言及しているのは、昭和12年8月2日付の外務省情報部長声明「通州事件に関する公式声明書」(弁護側文書番号: 1109)と同年8月4日付の外務省情報部長談「通州事件」(弁護側文書番号: 1107)であった[67]が、双方とも「外務省スポークスマンの発表は証拠価値無し」との理由でウェッブ裁判長の即決で却下された[68]

一方、萱嶋高中将、桂鎮雄少佐、桜井文雄少佐の3名の証人の口述書が受理され、1947年4月25日午前11時から11時58分の間に萱島と桂が出廷し宣誓供述書を読み上げ[55][69][56][70]、午後1時32分に桜井が出廷し証拠写真三点を提出し宣誓供述書を読み上げた[57][71]。なお、これら東京裁判における証言には、虚偽が判明しても偽証罪の適用はないことになっていた。

  • 萱嶋高中将:7月30日午前3時、河邊旅団長から事件救援を命じられ急行した。敵は退却しており、戦闘なく午後4時到着した。
城内は實に凄愴なもので到る處無惨な日本居留民の死體が横はつて居りまして殆ど全部の死體には首に縄がつけられてありました。頑是なき子供の死體や婦人の虐殺死體は殆ど見るに耐えませんでした。(略)私は直ちに城門を閉ぢ城内の捜索を始め殘つて居る日本人を狩り集めました。七、八百人居りました日本人で集まつて来たのは百五十名位でありまして三百五十名位は死體として発見されました。殘り二、三百名は何處かへ逃げたか或ひは虐殺されたか不明でありました。(略)

一、旭軒とか云う飲食店を見ました。そこには四十から十七、八歳迄の女七、八名は皆強姦され、裸體で陰部を露出した儘射殺されて居りました。其の中四、五名は陰部を銃剣で突刺されていました。家の入口には十二、三歳位の男子が通学姿で射殺されてゐました。家の内は家具、布団、衣類等何物もなく掠奪されていました。其の他の日本人の家屋は殆ど右同様の状態でありました。

二、商館や役所の室内に残された日本人男子の屍體は射殺又は刺殺されたものでありますが殆どすべてが首に縄をつけ引き回した形跡があり、血潮は壁に散布され全く言語に絶したものでありました。

三、錦水楼と云う旅館は凄惨でありました。同所は危急を感じた在通州日本人が集まった所でありましたものの如く大量虐殺を受けております、玄関、入口附近には家財、器具破壊散乱し目ぼしきものは殆ど掠奪せられ、宿泊していた男子四名は座敷で射殺されていました。錦水楼の女主人や女中は数珠繋ぎにされ手足を縛された儘強姦され、遂に斬首されたと云うことでした。

四、某日本人は夫婦と嬰児の三名で天井裏に隠れ、辛うじて難を逃れていましたが、其の下で日本人が次から次へと虐殺されてゆくのを見たと私に告白していました。 — 萱島高、法廷証番号2498: 萱島高宣誓供述書、弁護側文書番号: 1090[55]、速記録[69]
  • 桂鎮雄少佐:通州第2連隊歩兵砲中隊長代理。7月31日午前2時半通州到着し、掃討に従事。

一、私は七月三十一日午前八時頃、旅館錦水楼に参りました。錦水楼の門に至や、変り果てた家の姿を見て驚くと共に屍体より発する臭気に思はず嫌な気持になりました。玄関の扉も家の中の障子も家具も取り毀され門の前から家の奥まで見透すことが出来ました。入口に於て錦水楼の女将らしき人の屍体を見ました。入口より廊下に入るすぐの所で足を入口の方に向け殆ど裸で上向きに寝て顔だけに新聞紙が掛けてありました。本人は相当に抵抗したらしく、身体の着物は寝た上で剥がされた様に見え、上半身も下半身も暴露しあちこちに銃剣で突き刺したあとが四つ五つあつた様に記憶します、これが致命傷であつたでせう。陰部は刃物でえぐられたらしく血痕が散乱して居ました。帳場や配膳室の如きは足の踏み込み場所もない程散乱し掠奪の跡をまざまざ見せつけられました。

廊下の右側の女中部屋に日本婦人の四つの屍体があるのを見ました。全部藻掻いて死んだ様でしたが銃殺の故か屍体は比較的綺麗であつて唯、折り重なつて新で居りましたが一名だけは局部を露出し上向きになつて死んで居ました。室内の散乱は足の踏み場所もない程でありました。

次に帳場配膳室に入りました。ここに男一人、女二人が横倒れとなり或はうつぶし或は上向いて死んでおりここの屍体は強姦せられたか否かは判りませんが闘った跡は明瞭で男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣の様でありました。女二人は何れも背部から銃剣をつきさされた跡が歴然と残つて居ました。

次に廊下へ入りました。階下座敷に女の屍体二つ、これは殆ど身に何もつけずに素つ裸で殺され局部始め各部分に刺突の跡を見ました。

次に二階に於て四五人の屍体を発見、これは比較的綺麗に死んでおり布団をかぶせてありました。唯脚や頸や手が露出しておるのを見ましたが布団をはがす気にはなれませんでした。

池に於て二三人の屍体が浮かんでおるのを望見しましたが側へ行つて見る余裕はありませんでした。

二、市内某カフエーに於て、 私は一年前に行つたことのあるカフエーへ行きました。扉を開けて中へ入りましたが部屋は散乱しておらずこれは何でもなかつたかと思ひつつ進んだ時、一つのボツクスの中に、素つ裸の女の屍体がありました。これは縄で絞殺されておりました。カフエーの裏に日本人の家がありそこに二人の親子が惨殺されて居りました子供は手の指を揃えて切断されて居りました。

三、路上の屍体

南城門の近くに一日本人の商店がありそこの主人らしきものが引つぱり出されて、殺された屍体が路上に放置されてありました。これは胸筋の骨が露出し内臓が散乱して居りました。 — 桂鎮雄、法廷証番号2499: 桂鎮雄宣誓供述書、弁護側文書番号: 1139[56]、速記録[70]
  • 桜井文雄少佐:支那駐屯歩兵第二連隊小隊長。7月30日午後4時、通州到着し、掃蕩開始。

1.先づ守備隊の東門を出ますと殆んど数間間隔に居留民男女の惨殺死體が横はつて居るのを目撃し一同悲憤の極に達つしました敵兵は見当たりませんでしたので夜半迄専ら生存者の収容に擔りました。「日本人は居ないか」と連呼し乍ら各戸毎に調査して参りますと、鼻部に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等から彼所此所の塵、埃箱の中や壕の内、塀の蔭等から続々這い出して来ました。 2.某飲食店内には一家悉皆首と両手を切断惨殺されて居るのを目撃しました。婦人と云う婦人は十四五歳以上は悉く強姦されて居りまして全く見るに忍びませんでした。 3.旭軒と云う飲食店に入りますとそこに居りました七八名の女は全部裸體にされ強姦射(刺)殺されて居りまして陰部に箒を押込んである者、口中に土砂を填めてあるもの、腹部を縦に断ち割つてあるもの等全く見るに堪へませんでした。 4.東門の近くの或る鮮人商店の附近に池がありましたが、その池には首を縄で縛り両手を併せてそれに八番鉄線を通し(貫通)一家六名数珠継ぎにして引廻された形跡歴然たる屍体がありました池の水は血で赤く染まつて居たのを目撃しました。

斯くして一応の掃蕩を終了しましたのは夜の九時過ぎであつたと思ひますそれ迄に私の掃蕩担任地域内で目撃しました惨殺死體は約百名で収容しました重軽傷者は約二十名と記憶して居ります此等の死傷者中には発狂して居る者も若干あり殆ど茫然自失の状態でありました。(略) — 桜井文雄、法廷証番号2500: 桜井文雄宣誓供述書、弁護側文書番号: 1140[57]、速記録[71]

その他の日本人生存者の証言

  • 吉林生まれで5歳時に河北省の通県で一家の父母と妹が虐殺された新道せつ子は、中国人看護婦により自分の子であると庇われ、九死に一生を得て日本に帰還した。父は医院を開業していたが、保安隊が襲う直前に遺書を書き中国人看護婦(何鳳岐:か ほうき)に預けたという[72]
  • 当時中国人男性の妻であった大分県出身の佐々木テンという日本人女性がいて、その女性から1980年代後半頃に聞き書きしたとして、佐賀県の西本願寺派の寺の住職である調寛雅が1997年出版の自著で、その内容を公表している[73]。ただし、これは伝聞である上、この日本人女性が実在の人物であるかさえも不明である。それによれば主犯は保安隊員と中国人学生であり、かれらは胎児妊婦の腹から引きずり出す、その父親を数人がかりで殺してを引きずり出し、切り刻んで妻(妊婦)の顔に投げつけたという[74]。これらは通州市民の面前でおこなわれた虐殺であったが、市民は概して手を拱いて見ているばかりであり、虐殺後の日本人を見ても同情の念を示さず、身につけていたものを剥ぎ取るばかりであったという[74]。また、この調寛雅が女性から聞いたとする内容によれば、当初、日本人と現地中国人の関係は良好であったが、冀東政権成立後の1936年春ごろから中国人の日本人に対する雰囲気が変化し、それは朝鮮人が日本人の悪口を中国人に対して言い触らしたからだとする(ただし、通州事件では、中国人らは、日本人と朝鮮人をほとんど同類視して-実際に同じ”大日本帝国”臣民である-、現実に事件ではともに襲撃の対象となっていることから、この話は極めておかしい。)。藤岡信勝は、この調寛雅の著作の通州事件部分のみを抜出し、別の本として出版している。両者の本はどちらも、日本人はこのようなことはしない、中国人は残虐だということを主張する、民族性格論となっている。とくに、調寛雅の主張は、南京事件の日本軍の残虐行為を単なる民族性格論で否定するためのものとなっている。
  • 九死に一生を得た日本人女性の発言「日本人は殆ど殺されているでしょう。昔シベリアの尼港事件も丁度このような恐ろしさであったろうと思います」[75]



注釈

  1. ^ 「支那駐屯軍ノ作戦計画策定」「其ノ四 補給及通信」 一、兵站ハ差当リ第一期掃蕩戦ニ応スル諸準備ヲ完了セシムルヲ主眼トス之カ為兵站主地ヲ天津ニ設ケ通州及豊臺ニ補給基点ヲ設ケ半会戦分ノ軍需品及一箇月分ノ糧秣ヲ集積ス[21]
  2. ^ 「支那駐屯軍ノ作戦計画策定」「其ノ四 補給及通信」 三、軍司令部ハ第一期、第二期作戦間天津ニ位置ス会戦間通州又は豊臺ニ戦闘司令所を進ムコトアリ[21]
  3. ^ 張慶餘 (1895 - 1963) 1933年任冀東特種警察隊第一總隊隊長。1935年11月改任偽冀東保安隊第一総隊隊長、1937年7月率部起義、転保定、洛陽、西安、於1938年隱居四川金堂県什坊鎮。後被委任為国民党軍委会中将参議[58]
  4. ^ 信夫は、朝鮮人の大多数は「アヘン密貿易者および醜業婦にして在住未登録なしりもの」のみ記述している[83]

出典

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