禁中並公家諸法度 この法度の分析

禁中並公家諸法度

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/22 13:27 UTC 版)

この法度の分析

天皇に学問和歌の修学を義務付けた第一条は、かつては天皇を天下国家から遠ざけ和歌や風流の世界に閉じ込めるために規定されたものと解釈されていたが、1980年代頃から解釈の見直しの研究が進み、幕府が定めた規定は従来からある天皇の日本の国王や帝王としての地位を認めつつ、『禁秘抄』『貞観政要』『群書治要』といった具体的な和漢の帝王学の書物を挙げて、学問を学ぶことにより日本国の帝王としてよりよき政治を行い天下太平の維持への貢献を期待するものであったと解明されている[5]

第一条の条文は鎌倉時代順徳天皇が記した有職故実書『禁秘抄』に書かれている文章の抜粋である[6]。これについて橋本政宣は第一条にこれに関白が連署して公家法としての要件を得る事によってこの法度の実際の制定権力である江戸幕府への「大政委任」の法的根拠を与えたと解説する[7]

橋本の分析によると、武家伝奏の位置付けなど朝幕関係のあり方を規定し、幕府への大政委任に法的根拠を与えた事は事実であるが、直接的に朝廷の統制を目的とした条文は存在していない。そもそもこの法度の対象に含まれるのは、大政委任を受けた征夷大将軍の指揮下に置かれて自身も武家官位の任命対象である「武家」や僧官の任命対象である「僧侶」など、朝廷と将軍によって任官された全ての身分が拘束されるものである。更に、新規に定められたものは朝幕関係規定以外は宮中座次など、むしろ朝廷内部で紛糾していた問題に関連する部分が多い。戦国時代の混乱期に一旦は解体しかけた朝廷及び公家社会の秩序回復に、江戸幕府が協力する姿勢を示したものとも言える。これは歴史上で見れば、鎌倉時代皇位継承で朝廷内が紛糾した際に鎌倉幕府両統迭立原則を呈示して仲裁にあたった事例に近い性質のものである(ここで問題とされたものは、後に紫衣事件尊号一件などで再び議論が持ち上がったものばかりで、幕府権力をもってしても困難な課題であった事も共通している)。つまり、禁中並公家諸法度本来の趣旨としては公家武家僧侶天皇及びその大政委任を受けた征夷大将軍に仕えるための秩序作りのための法度であった結論づける[8]。これに対して田中暁龍は法度の作成に二条昭実ら朝廷側も関与していたことや宮中座次などの問題の解決を目指したことについては同意するが、一条兼香(江戸時代中期の摂関)が示した第一条解釈(『兼香公記』享保20年4月22日条)を引用しながら、朝廷において天皇に求められた学問は和歌や文学よりも「国家治政の学問」であるという論理は『禁秘抄』が書かれた昔から一貫して変わっておらず、その朝廷側の論理を幕府が汲み込む形で第一条は成立したと考えられ、幕府側の論理である大政委任の法的根拠と解釈することは出来ないとしている[9]

江戸幕府による朝廷及び公家社会の秩序回復については、関ヶ原の戦いの翌月(慶長5年(1600年10月)に、公家領の録上を行い、翌年には禁裏御料をはじめとして女院宮家公家門跡に対する知行の確定を行っている。続いて、地下官人制度の再編成を行っており(出納平田家による蔵人方統率など)、禁中並公家諸法度もその流れの一環として位置づけられる。また、武家官位との関係で言えば、武家官位の員外官化と公家官位からの分離は既に慶長11年(1606年)4月に導入されていた武家官位推挙の江戸幕府への一本化と合わせ、豊臣氏宗家を摂関家に豊臣氏庶流や豊臣氏庶流および徳川・前田・上杉・毛利・宇喜多の諸氏を清華家として位置づけようとした豊臣政権における官位システムの解体[注釈 8]と徳川氏による武家官位掌握を目指したものであり、その結果徳川氏一門を唯一の武家公卿とする原則(まれに加賀藩前田氏などが公卿となった例がある)が確立された[10]

[疑問点]徳川家広は禁中並公家諸法度法度を憲法であったとし、また同法度を「世界最初の長続きした憲法」としている[11]


注釈

  1. ^ 「公家諸法度」は発布当初の名称でもある。
  2. ^ ただし、当時宮中の席次や紫衣の手続を巡って論争があり、朝廷からその仲裁を要請されていた事情も背景にあった。実際に大坂冬の陣の最中の慶長19年12月以降、家康は戦時中にもかかわらず側近の日野輝資や武家伝奏である広橋兼勝三条西実条を大坂の陣中に呼んで「古今礼義式法之相違」に諸公家の意見を集約するように度々促しており、公布直前の5月16日には二条城滞在中の家康から有力公家に原案が提示されてその意見をもとに修正が加えられている[1]
  3. ^ 実際にはこの法度の発布される4日前の7月13日に「慶長」から「元和」に改元されているが、現存する法度の写本は「慶長廿年七月」の日付が記載されている。まさにこの改元において、当法度第8条に規定されている改元権を巡り、朝幕間で諍いがあった。詳細は元和(年号)を参照。
  4. ^ 当時の関白は鷹司信尚であるが、「国家安康」の鐘銘で問題になった方広寺の大仏供養に参列しようとした件を巡って家康に忌避され、慶長19年11月1日の摂関家による家康への挨拶の際に家康から会見を拒否されて以降は謹慎状態となり、大坂の役後に辞表提出に追い込まれており、法度公布直前の7月10日二条昭実に次期関白の内示が出され、同28日に正式に任命されている。つまり、昭実は事実上の現関白の立場として法度に署名している[2]
  5. ^ 法度の内容自体は幕末まで変更されなかったものの、細かい字句については万治4年(1661年)の原本焼失による復元の際に変更された可能性もあるとされる[3]
  6. ^ 原文には、適宜句読点を付した。
  7. ^ ここで言う「学問」は政治の参考になる書や天皇としての心得や作法を記した書である。条文の続きには具体的な書物の名が挙げられているがいずれもの『貞観政要』『群書治要』や宇多天皇が記した『寛平御遺誡』といったものであり、名目上の存在とはいえ天皇は君主であり、あくまでも君主として必要なことを学ぶよう求めている[4]
  8. ^ これには徳川氏が豊臣政権下で豊臣氏宗家の下に位置づけられ、かつ前田・上杉・毛利といった現存外様大名を含む他大名と同格とされた事実の否定・隠蔽を含む。

出典

  1. ^ 橋本、2002年、P540-554
  2. ^ 橋本、2002年、P551-555
  3. ^ 橋本、2002年、P556-565
  4. ^ 藤田覚『江戸時代の天皇』p.16-19
  5. ^ 藤田覚 2018, p. 14‐18.
  6. ^ 橋本、2002年、P590
  7. ^ 橋本、2002年、P590-594
  8. ^ 橋本、2002年、P565-595
  9. ^ 田中暁龍「禁中并公家中諸法度第一条について」『近世朝廷の法制と秩序』(山川出版社、2012年) ISBN 978-4-634-52015-8 P33-43
  10. ^ 矢部健太郎「豊臣「武家清華家」の創出」2001年(『歴史学研究』746号)、後に矢部『豊臣政権の支配秩序と朝廷』(吉川弘文館、2011年)所収
  11. ^ (日本語) 徳川家広さん 禁中並公家諸法度に絡めて日本憲法を語る。ノーカット版。解りやすい歴史の教科書リンクフリー, https://www.youtube.com/watch?v=VTEYGsghtJA 2023年12月22日閲覧。 (リンク映像4m22sから)


「禁中並公家諸法度」の続きの解説一覧




禁中並公家諸法度と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「禁中並公家諸法度」の関連用語

禁中並公家諸法度のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



禁中並公家諸法度のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの禁中並公家諸法度 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS