災害医療
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関連施設
いずれもドクターヘリの離着陸場所と平時からの医薬品の備蓄が必要とされている。
日本における災害医療の歴史
- 神話時代
- わが国の記録に残っている最古の災害医療に関する記述は、古事記(712年 太安万侶 編纂)の時代にまでさかのぼる[36]。創生神代の巻において、災害医療・災害看護に関する記述であろうと読み取れる一節がある。 それは出雲国を旅していたオオナムヂ(大国主命)の話である。
伯耆(ほうき)の国で、八十の神々がオオナムヂ(大国主命)を殺そうとして、イノシシの姿に似せた大岩を真っ赤に焼いて、山の上から転がり落とした。オオナムヂは、焼けた岩に押し潰されて死んでしまった。
それを聞いた母神の サシクニワカヒメ(刺国若比売命)は 殺されたわが子を見て哭(な)き悲しみ、高天原に上って 天の大神・カムムスビ(神産巣日神)に助けを求めた。
大神は、赤貝の女神・キサガヒヒメ(𧏛貝比売)と、蛤の女神・ウムギヒメ(蛤貝比売)の二柱の女神を遣わして、彼を作り生かさせた。
キサガヒヒメは貝の殻で焼けたオオナムヂの骸を丁寧に岩から剥がし、ウムギヒメは母神の乳汁に薬を混ぜ合わせて、オオナムヂの焼け爛れた体にくまなく塗った。
まもなくオオナムヂは生き返って、うるわしい男に戻った。
- これは、現在の鳥取県の伯耆大山(鳥取県西部にある中国地方最高峰の火山で、古名を火神岳(ひのかみだけ)という)の噴火によって人々が大火傷を負った出来事の伝承であると考えられる。
ある日突然、火の玉(火山噴石)が降って来て、一人の男が全身に大火傷を負う。母親は火傷した子の命を助けようと、当時の権力者に救いを求め、女性たちが手当てや介抱をする。ここに、当時の災害発生直後の人々の姿を見ることができる。
また、焼けた皮膚を丁寧にはがし、タンパク質を含む乳汁を塗る という手当ては、現代のような優れた医薬品や衛生材料が手に入らなかった当時としては、最先端の治療法であったと考えられる。
- 中世〜近世
- 奈良・平安時代や戦国時代以降にも、多くの自然災害や戦乱が起きていたが、当時の文献に被害に関する記録 [37] [38]は残っていても、人々に対する医療活動の記録は残っていないことが多い。日本は聖徳太子の時代から永きにわたり 仏教国であったため、外科治療の基礎となる人体の解剖学は 「遺体を切り刻むなど狂気の沙汰だ」 とされ、長らく発展しなかった。そのため 治療法も煎じ薬など漢方薬による内科的治療と、栄養のある食事をさせるといった自然治癒力に頼る治療法が主流であった。
- 当時の戦乱に対する救護医療は、負傷者の傷口を井戸水などで洗浄したり圧迫止血したりといった、現在の「応急手当」程度のレベルのものであったと考えられる。
- 人口の集中にもかかわらず衛生施設(飲料水と汚水の分離)が未整備であった京の都などでは疫病が幾度となく人々を襲い、赤痢や裳瘡(天然痘)、瘧(わらわやみ=マラリア)、麻疹(はしか)、咳病(結核、インフルエンザ)などが流行した。
- 現在のように一般の人々が当たり前に医療を受けられるような時代ではなく、漢方薬はとても高価で簡単には入手できず、医療は貴族や武将など、一部の権力者などが受けられる程度であった。 方丈記には、
築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、臭き香 世界に満ち満ちて、変わりゆくかたち有様、目もあてられぬ事多かり。
- との記述が見られ、治療を受けられない人々は次々に衰弱死し、街の至る所には遺体が放置され、平安京だけでも4万2千300余名が犠牲になったと言われている。
- 公衆衛生という概念が無かった時代でもあり、原因は怨霊の祟りや仏罰、神罰だと信じられていた (末法思想)。多くの死者を慰霊し感染症の鎮圧を祈願して祇園祭などが始まり、疫病の流行や飢饉は全国各地に伝わる祭事の起源にもなった。
- 中でも天明の大飢饉では、全国で飢死者が92万人余り[39]にも及び、特に被害が深刻だった東北地方では住民の約3人に1人が飢死するという、まさしく見渡す限り地獄のような光景がどこまでも続く大災害となり、もはや医療どころの話では無いレベルの惨状となった。約240年前に日本で実際に発生した災害である。
- 近代
- わが国で本格的に看護婦(※ 現在は法改正により「看護師」となっているが、当時は「看護婦」と称していたため、歴史的記述の際は、当時の呼称を用いる) が養成されるようになった明治20年(1887年)以降に看護婦が活動した最初の火山災害は、明治21年(1888年)に発生した磐梯山の噴火である。 この災害では、水蒸気爆発や山体崩壊、火砕流により、山麓にあった複数の村々が住民もろとも土砂に飲まれ、また民家は爆風になぎ倒され、死者461名を超す大惨事となった。
- なんとか救出することができた負傷者の多くは裂傷や骨折、打撲などを負っていたといわれ、発災直後から地元の開業医たちが総出で初期治療に当たったが、医薬品や医療機器の不足から対応は困難を極めた[40]。その後火山災害としては初めて、日赤病院から医師と看護婦、救護員など15名、東京帝國大學病院からも医師たちが派遣された。
- 明治24年(1891年)に発生した濃尾大地震は、愛知・岐阜の両県を襲った直下型 内陸地震であり、約14万棟の家屋倒壊と火災で、死者7千人を超す大惨事となった。 東京からは帝國大學病院や赤十字病院、慈恵醫院(当時)や順天堂醫院、関西からは京都の同志社病院、そして大阪からも多くの医師・看護婦が被災地に入り、災害医療に当たった。
- 日本赤十字では、その前年の明治23年(1890年)から、戦時救護を目的とする「救護看護婦」の養成を始めていた。濃尾大地震の際には、1年半の看護教育を修めた一回生 10名と、従来から赤十字病院で勤務していた看護婦と医師らが救護に向かった。救護看護婦は 傷病者の担架搬送や、医師の外科診療の補助に当たった[41]。この経験から、救護看護婦養成の目的の一つに「天災(自然災害)時の救護」を加えることになった。
- 明治29年(1896年)6月に発生した明治三陸地震では、現在の岩手県 釜石市の東方沖200kmを震源とする地震により、リアス式の三陸海岸を、当時観測史上最高となる38.2mの巨大津波が襲い、現在の宮城、岩手、青森の3県でおよそ2万2千人近い死者を出す大惨事となった。
東京から日赤救護班が被災地に向け出発したが、太平洋沿岸部の道路は大津波により広範囲で浸水・寸断されていたため全く通行できず、やむなく救護看護婦らは迂回路として険しい山道を徒歩で越えて、被災地に向かった。大船渡では、津波被害を免れた高台の寺に臨時で設けた救護所で災害医療活動を行ったという記録が残っている[42]。
- 大正12年(1923年)に発生した関東大震災では、現在の神奈川県 小田原沖の北10kmを震源とする地震で、東京・神奈川・千葉などが被災した。約60万戸の家屋倒壊、また運悪く 昼食時に発災したため、当時の東京市内では、把握されているだけでも約80ヶ所以上からほぼ同時に出火した。
- 家屋密集地域では大火災となり、死者のうち約87%の9万2千人が焼死、死者・行方不明者は約14万5千人以上に及び、住民の治療を行うはずの医療機関も軒並み甚大な被害[43] [44]を受ける、大規模な災害となった[45]。
- このときも全国から[46]救援物資・人材が被災地に送り込まれ、災害医療・救護活動[47]が展開された。
震災後には、宮内省の救療班[48]や 済生会、日赤などが無料で巡回診療や看護活動を行った。その後、聖路加や日赤が「社会看護婦」(現在の保健師)の養成を始めるなど、関東大震災の復興期における医療・看護活動は、地域保健の先駆けともなった。
脚注
注釈
出典
- ^ 尼崎JR脱線事故 治療映像を兵庫医科大が公開【動画】
- ^ 「阪神淡路大震災の記録」【動画】
- ^ 「平成30年7月豪雨災害への対応」【動画】
- ^ 「自衛隊だけが撮った0311東日本大震災」【動画】
- ^ NHK富山「南海トラフ巨大地震を想定 富山空港でDMAT訓練」【動画】
- ^ 「災害に備えて茨城JMAT研修会」【動画】
- ^ 「災害時の医療体制強化」都立広尾病院 総合防災訓練【動画】
- ^ 「大森医師会 池上総合病院 救護所訓練」【動画】
- ^ 読売新聞オンライン 2021.02/28「のみ込まれた海辺の病院…入院患者40人、1人も助からず」
- ^ Tansa 2021.03/08「双葉病院置き去り事件(1) 227人残し『避難完了』」
- ^ 国民保護実動訓練 1t半救急車 緊急走行【動画】
- ^ テレビ愛知「自衛隊のはたらく車 野外手術システム2型」【動画】
- ^ 熊本赤十字病院 特殊医療救護車 緊急走行【動画】
- ^ 春の天明まつり「熊本赤十字病院 特殊医療救護車」【動画】
- ^ 阪神淡路大震災 災害時の医療活動【動画】
- ^ 「阪神淡路大震災 救援・人はどう動いたか」(2)医療機関の被害【動画】
- ^ 関テレNews「震度6強の揺れ、そのとき医療現場は…」【動画】
- ^ 「阪神淡路大震災当日のトリアージ」兵庫県立淡路病院【動画】
- ^ 阪神淡路大震災 淡路島救急の記録【動画】
- ^ 「START式トリアージ」練馬区地域医療課【動画】
- ^ 兵庫医大救命救急センター「東日本大地震 宮城県石巻市医療救護活動報告」
- ^ 名古屋第二赤十字病院 令和元年 化学テロ災害被害者受入れ訓練【動画】
- ^ CDC Emergency Preparedness & Response Site - アメリカ疾病予防管理センターの災害対策ページ
- ^ Einav S, Aharonson-Daniel L, Weissman C, Freund HR, Peleg K; Israel Trauma Group. "In-hospital resource utilization during multiple casualty incidents." Ann Surg. 2006 Apr;243(4):533-40. PMID 16552206
- ^ khb東日本放送「宮城・山元町で唯一の病院 16日の地震で前年に続き地震で被災」【動画】
- ^ Okie S. "Dr. Pou and the hurricane--implications for patient care during disasters." NEJM. 2008 Jan 3;358(1):1-5. No abstract available. PMID 18172168 - ハリケーン・カトリーナの事例から、医療者は自身の避難を遅らせてまで診療に当たるべきか、或いはそうでなければ、放置されれば死ぬ患者に安楽死を行うことは是か非かを問うている
- ^ 災害医療コーディネーター設置に関わる都道府県アンケート調査結果報告 東北大学災害科学国際研究所
- ^ 板橋区災害医療コーディネーター設置要綱
- ^ 第2回災害医療等のあり方に関する検討会資料 厚生労働省
- ^ 三重県災害医療コーディネーター設置要綱 三重県
- ^ 港区災害医療コーディネーター設置要綱 東京都港区
- ^ 医政局長通知0321第2号 平成24年3月21日
- ^ a b c d 後藤・高橋、2014年、29 - 30頁
- ^ 家族を土葬「受け入れるしかない」 東日本大震災【動画】
- ^ 後藤・高橋、2014年、225頁
- ^ 「口語訳 古事記 完全版」 三浦佑之 文芸春秋 2002
- ^ 京都市ホームページ「方丈記に見る3つの災害」
- ^ 鹿児島大学理学部 地学教室応用地質学講座「災害文学」
- ^ 石井寛治『日本経済史』、東京大学出版会、77頁
- ^ 磐梯山噴火百周年記念事業協議会(1988)p.110、川原(2009)pp.81-82、p.88
- ^ 「日赤中央女子短大90年史」 日本赤十字中央女子短期大学 編 1985
- ^ 「ビゴー素描コレクション3 明治の事件」 芳賀徹ほか編 岩波書店 1989
- ^ 関東大震災 映像デジタルアーカイブ「損壊した平民病院」【動画】
- ^ 関東大震災 映像デジタルアーカイブ「陸軍軍医学校における負傷者の収容」【動画】
- ^ 関東大震災 映像デジタルアーカイブ「日本赤十字病院での救護活動 (豊多摩郡渋谷町)」【動画】
- ^ 関東大震災 映像デジタルアーカイブ「東北帝國大學救護班の活動風景」【動画】
- ^ 関東大震災 映像デジタルアーカイブ「宮城(皇居)外苑の日赤救護所と陸軍第1師団第3救護班の軍医」【動画】
- ^ 関東大震災 映像デジタルアーカイブ「宮内省 巡回救療班による往診」【動画】
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