広島城 遺構

広島城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/06 07:13 UTC 版)

遺構

被爆前
被爆後
被爆前後の本丸および二の丸。米軍撮影。本丸中央が旧大本営。本丸左下の3つ並ぶ建物が第5師団司令部で被爆当時は中国軍管区司令部。この時点で中堀は空堀になっていると分かる。

大本営跡/昭憲皇太后御座所

石垣

1589年(天正17年)8月、毛利輝元は家来に堀の工事と石材の収集を命令したと伝えられている[94]

石材の殆どは緻密で硬いことから花崗岩が用いられている[94]。瀬戸内海は良質な花崗岩の産地が多いことから主に沿岸部から運び込まれており、近年の調査で黄金山江波山(この当時は島だった)、倉橋島屋代島(周防大島)などの島々からも運び込まれたと判明している[94]

本丸北東付近、本丸上段東端の不規則につまれた状態で途切れている石垣は、福島正則の改易騒動を史実的に裏付けるものと考えられている[95]。正則が改易される少し前に、幕府は一度条件付きで正則を許している[95]。その条件の一つに修築した石垣の破壊が盛り込まれていた[95]。この部分は正則が破壊した石垣の境界部分と考えられている[95]

広島市への原子爆弾投下の際に、内堀の一部石垣が崩れていることが米軍の空中写真により分かる。表御門や中御門にある石垣の一部に焦げたような跡があるのは被爆により発生した火災によるものである[96]

上記の通り、明治期に外堀が、戦後昭和30年代までに中堀が埋め立てられ、現在は内堀のみが残る形である[59]紙屋町・八丁堀周辺の歩道に、外堀があったことを示す石碑が建っている。

1970年代以降、祇園新道1994年アジア競技大会会場整備、広島高速交通広島新交通1号線、紙屋町シャレオなど周辺の土地開発工事の際に発掘作業が同時に行われており、断片的ではあるが堀の詳細が判明[† 9]している。

戦後、外堀中堀と埋め立てられたせいで内堀は循環機能を失った"ため池"となり、更に周辺の都市開発の影響により地下水位が低下したことから内堀は枯れ始め、富栄養化も目立つようになる[59]。様々な対策が行われたが、アジア大会開催を機に抜本的な対策が取られることになった[98]。それは、旧太田川(本川)から川水を取水し、内堀まで導水、循環させ、再び本川へ流出する導水路および流水路の建設工事で、建設省(現国土交通省)と広島市による共同事業となった[59]。これら導・流水路および内堀は、一級河川旧太田川を本流とする準用河川に指定されている[59]

金鯱瓦

2009年(平成21年)3月、広島市中区上八丁堀の広島地方合同庁舎5号館建設による前調査の際に、金鯱瓦が一対発見された[99]。発見された場所は、本丸から見て東側の中堀と外堀の間に位置していた武家屋敷にあたり、井戸跡の底に大量の瓦と共に埋まっていた[99][100]。ほぼ完全な状態での金鯱瓦出土は国内初で、更に日本でも古い部類の鯱瓦にあたることから、完品として現存最古の金鯱瓦である[99][101]

発見された珍しい瓦は以下のとおり。これらは築城当時の毛利氏時代のものと推定され、地下水に浸っていたため腐食しなかったと考えられている[99]

現在の鯱瓦(復元)。
  • ほぼ完全な形の金鯱瓦一対
    • 高さ約70センチ×幅約30センチ[100]。粘土製で、下地として黒漆と赤漆が塗られており、安土城の鯱瓦に似ている[100][101]。本丸櫓門の棟上に飾られていた金鯱瓦と推定されている[99]。また当時京都で作られていた一般的な鯱瓦よりも技術的に低いことから、広島で作られたものではないかと推測されている[102]
  • 金箔の施されていない鯱瓦一対[99]
    • 高さ約40センチ。
  • ホタテ貝の模様の入った瓦[99]
  • 鬼瓦[99]
  • 家紋と見られる印が入った瓦[99]

金箔瓦が作られた当時の豊臣政権下において、この瓦は「権威の象徴」とみなされ設置は秀吉の許可が必要だった[99]。また豊臣政権下でのこの瓦は朝鮮からの使者に日本の栄華を見せつけることを主目的としたため、同時代に築城した北部九州から大阪にかけての城でいくつか出土例があり、県内では厳島神社でも出土している[103]

井戸跡に埋められていた理由について、三浦正幸広島大学教授は「毛利輝元が防長2国に移封された後に広島城に入った福島正則が本丸櫓門から取り外し、城主交代を広く知らしめるために、儀式的な意味で丁重に井戸に沈めて埋納したのではないか」[99] と推測した。これは、これら瓦が井戸の中で雑に投棄されていたのではなく、丁寧に積み重なる状況だったことも根拠の一つである[101]

被爆遺構

中国軍管区司令部跡。

1993年、広島市は爆心地から5キロメートル以内に位置する被爆建造物を洗い直し、それぞれ「被爆建物」「被爆樹木」「被爆橋梁」台帳に登録した。以下、城内にある被爆遺構を列挙する。

被爆建物
  • 中国軍管区司令部跡 - 爆心地から790メートル。広島護国神社境内、南側内堀石垣の際にある半地下式鉄筋コンクリート造の平屋建ての建物。旧名「中国軍管区司令部防空作戦室」。被爆の第一報を伝令した歴史的に重要な建物である。
被爆樹木

江戸時代末期、城外からの目隠しとして内堀の際に松や杉・雑木が多数植えられていた[5]。その後も生き続けていたが被爆によりそのほとんどが倒壊した[5]。2012年現在、被爆後も生き続けている被爆樹木が3本ある。

  • クロガネモチ - 爆心地から910メートル。本丸の広島大本営跡の南側に生息している。元々は大本営前の前庭にあたり車周りの植え込みの一つだった[104]
  • ユーカリマルバヤナギ - 爆心地から740メートル。二の丸の中御門前の土橋の両端に生息している[105]
その他

以下、被爆建物台帳に記載されていない被爆遺構である。

  • 広島護国神社鳥居 - 爆心地から100メートル(移転前)。裏御門付近に移された旧広島護国神社鳥居。元々護国神社は旧外郭の南西付近、西練兵場の西側、現在の広島商工会議所の北側にあり、この鳥居は相生通りから北側すぐにあった。被爆により鳥居だけは残った。護国神社が本丸に移転した際に、旧鳥居を現在地に移転している。
  • 広島大本営跡 - 爆心地から900メートル。上記参照。

旧三の丸の遺構

多家神社の宝蔵
校倉造りだが、他に例の少ない四角形に近い断面六角形の校木を使用している。

上記の通り、近代は軍用地として拡張し被爆により建物全壊、戦後は都市開発により、藩政時代の面影を残すものは極めて少ない。ただ明治期に移築した旧広島城の建物はいくつか現存している。

多家神社

安芸郡府中町にある神社で、元々は三の丸にあった稲荷社が1874年(明治7年)に移築されたもの。その後火災により焼失し、宝蔵のみが現在旧広島城時代の建物としては唯一のものとなっている。

1954年(昭和29年)、多家神社宝蔵が広島県重要文化財に指定された。

学問所
2010年。広島城の土蔵。解体前
別の角度より

学問所は、江戸時代後期に三の丸に存在し、跡地は現在広島高等裁判所の敷地[106] として利用されている。1725年(享保10年)に広島藩主浅野吉長が「講学所」として開校した藩校が前身であり、1782年天明2年)2月学問所開校、1870年(明治3年)8月移転し、現在は修道学園(修道中学校・修道高等学校)として存続している[107]。以下は学問所関連の遺構である。

  • 中堀土塁跡 - 裁判所敷地内にある、中堀の内側石垣の土塁跡であり、中堀外側に学問所があった。内堀北東隅で東から南に向きを変えた部分がL字型にわずかに残る[11]。なお裁判所敷地内ということから許可なく見学することはできない[106]
  • 土蔵 - 間口3.8メートル×奥行5.7メートルの2階建の土蔵[108]。明治時代の間に、市内愛宕町(現東区)に住む民間人[† 10]のところへ移築し被爆にも耐えた(爆心地からの距離は不明だが3キロメートル前後)[108][110]。平成に入り、瓦が落ちそうになるほど老朽化したため取り壊されるところだった[110]。そこへ学問所の土蔵だということが判明し関係者が保存に動いた結果、修道学園が無償で引取り校内へ復元移築した[108][111]。2018年、広島市指定重要文化財に指定された[112]

  1. ^ 城が置かれた土地は当初は在間庄と呼ばれた[16]
  2. ^ 元就にゆかりがある旭山神社で輝元は見分した[26]
  3. ^ 『芸州広島御分国八州之時御城下屋敷割并神社仏閣割共図』など毛利氏時代の町割りを書いた絵図が存在するが、これらは江戸時代に書かれたものであるため信頼性が低い。
  4. ^ 一説には毛利輝元時代。
  5. ^ 正室は家康の三女正清院
  6. ^ 当時、比治山女学校は偕行社附属学校で生徒の多くが高級軍人の子女であったことから入ることを許可された[41]
  7. ^ 北方向の牛田工兵第5連隊作業場があった[48]
  8. ^ 八丁堀は約8町あった東面外堀にちなむ。
  9. ^ 例えば、広島城内堀の南に位置する広島市中央庭球場は中堀があった場所であり、アジア大会開催前の整備工事の際に大規模な発掘調査が行われたり[97]、紙屋町シャレオは外堀があった場所であることからその建設工事中の合間を縫って夜間に発掘調査が行われた[12]
  10. ^ 所有者の祖先は広島藩士で、藩主である浅野氏から譲り受けたと伝えられていた[109]
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