失われた時を求めて 成立過程

失われた時を求めて

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/13 08:36 UTC 版)

成立過程

概説

『失われた時を求めて』は長さが長大なだけでなく、1つの文章も非常に息が長く、隠喩(メタファー)の多い文体となっている[9][19]。また、数百人にも及ぶ厖大な数の登場人物のうちの主要人物も数多く、その関係も複雑で、物語に様々な伏線が張られているなど、作品全体の構造が捉えにくい面もある[9]

プルースト自身が、本作を生涯かけ創作する直接的なきっかけとしては、37歳になる1908年頃から文芸評論家・サント=ブーヴの論に異を唱える「サント=ブーヴに反論する」という評論を書き出したことで、そこから徐々に構想が広がり、『失われた時を求めて』の題を持つ小説に発展していった[14][1][20]。プルーストは外部の騒音を遮るため、コルク張りにした部屋に閉じこもって書き続け、42歳となった1913年11月に第1篇『スワン家のほうへ』を自費出版した[21][22]。この時点では当初3篇(全3巻)の予定であったが第一次世界大戦により出版が中断し、さらに新たな要素を加えるなどの改稿を続けて長大化していく[14][1][13]

様々な紆余曲折を経て、プルーストは47歳となる1918年頃に発話障害顔面麻痺に時々襲われながらも全20冊のノートに清書原稿を書き上げた[1][5]。その後も大幅な修正・加筆作業を続けて、1919年6月に出版した第2篇『花咲く乙女たちのかげに』はゴンクール賞を受賞した[23][5]。そして手直し作業が第4篇まで完成し、第5篇の印刷ゲラに手入れしている途中、プルーストは1922年12月18日に51歳で死去した[1][5]

ゆえに第5篇の途中以降は未定稿の状態であったが、弟ロベールフランス語版や批評家ジャック・リヴィエールらが遺稿を整理して刊行を引継ぎ、最後の第7篇を1927年に刊行して出版完結となった[14][5]。物語としては一応終っているが、プルースト自身が自作を大聖堂に喩えているように[19]中世教会建築さながらに加筆改稿されて膨大化した作品であるため、死後刊行の3篇に関しては真の意味では未完作といえる[13]。さらに言えば、もしプルーストがまだ数年生き長らえて書き続けていたとしても、人生の全てを書きこむのは不可能であっただろうため、予め未完を運命づけられていた作品だとも言われている[14][13]

物語は、ある日語り手が一さじ掬った紅茶に混ざった一片のプチット・マドレーヌを口にしたのをきっかけに、その味覚から幼少期に家族そろっての休暇を過ごした田舎町コンブレーの全体の記憶が鮮やかに蘇ってくる、という「無意志的記憶」の感覚を契機に展開していく[15][3]。そして幼い語り手の一家が滞在したコンブレーの叔母の家の敷地に面していた「スワン家のほう」と「ゲルマントのほう」というY字路の2つの散歩道のたどり着く場所に住んでいる2つの家族たち(スワン家とゲルマント家)との関わりの思い出の中から始まって、自らの生きてきた歴史を記憶の中で織り上げていくように多くの様々な挿話と共に進んでいく[15][24]

作中の年代は、およそ1880年代から1920年代頃と推定され(第1篇第2部「スワンの恋」は除き)[8]第一次世界大戦前後の都市が繁栄した19世紀末からベル・エポックにかけての世相風俗や、社交界の人々のスノビズムも仔細に描かれている[14][25][17]。また主人公は同性愛者の設定ではないが、同性愛も重要なテーマの1つになっており、これはプルースト自身が同性愛者であったことと、秘書(元雇いの自動車運転手)を務めた青年(恋人)が失踪の後に飛行機事故死したことが、主人公の恋人アルベルチーヌの死に置き換えられていると言われている[1][26]

このように、物語全体はフィクションであるが、芸術家である作者の自伝的な作品という要素も色濃い。名前のない主人公の〈私〉は、プルースト自身を思わせる人物で、少年期の回想や社交界の描写、恋愛心理などにプルーストの体験が生かされている[21][3]。結末では語り手が自身の生涯を素材として「時」をテーマにした小説を書く決意をするという作家としての自覚の場面があり、作品はこの作品自体がどのようにして可能になったかの根拠を示していった小説と考えられ、作品導入部と結末部が円環的な関係にあり、あたかも論文における序文と結論が、予め第1篇に置かれていたことが解かる構造となっている[8][1][17][15]

「サント=ブーヴに反論する」

『失われた時を求めて』の成立の基点は、一般に1908年と考えられている[1][27]。この年の初頭より、プルーストは『フィガロ』紙に、当時ロンドンで起きた詐欺事件「ルモワーヌ事件」を題材に、バルザックミシュレゴンクール兄弟フローベールなどのパスティーシュ(模作)を発表しており、これが直接のきっかけになって評論活動への意欲を抱いた[28]

プルーストは、文芸評論家サント・ブーヴが、スタンダール、バルザック、フローベールなど同時代の作家を軽視し見誤った作品評をしたと考え、サント・ブーヴに対する批判として作家論を書く計画を立てていた[28][1]。作家の日常の人となりと、作品とを不可分のものと考えていたサント=ブーヴに対して、プルーストは、文学作品を評価するうえで、そうした日常的・外面的な「表層の自我」と、芸術作品中で表現される自己内部の「深層の自我」は別物であるとし、その深層を表出している作品に即して考えなければならないとしていた[1][25][3]

一冊の書物は、われわれが日頃の習慣や、交際や、悪癖などのなかで示している自我とは異なった自我の所産である。このもうひとつの自我を理解しようと思うなら、それに成功するためには自分自身の奥底に降りてゆき、自分の内部でこの自我を再創造する以外にない。 — マルセル・プルースト「サント=ブーヴに反論する」

そうした評論計画の一方で、プルーストは、「ロベールと子山羊」「名をめぐる夢想」などの表題のついた、『失われた時を求めて』の原型となる小説断片が含まれた75枚の草稿を書き始めていた[1]。そして、1909年8月までの段階では、これらの評論と小説は、夜中の回想の物語に、明け方の母親との会話形式の評論を繋げるという「サント=ブーヴに反論する――ある朝の思い出」と仮に題された1つの作品としてまとめられることが予定されており、前半部では理論の実演として小説が、後半部では理論編として評論が置かれるという構成になっていた[1][20]

しかし、この作品が当初予定されていた出版社から拒否されると、プルーストは、他の出版社を探しながら作品の改稿を続けていき、次第に全体の構想も変化していった[1]。当初、評論の形をとっていた最後の理論部分は作品の中に溶け込み、さらに「無意志的な記憶」の作用が作品の冒頭と最後に置かれ、作品構造を決定する基本的要素となった[1]

以前の自伝的断片

プルーストが1895年から1899年頃にかけて書いていた自伝的な小説断片(未完)をまとめた『ジャン・サントゥイユ』が、プルーストの死後の1952年に出版されたが、この自伝小説の中には『失われた時を求めて』の各所の挿話と類似する点も見受けられる[29][3]

『ジャン・サントゥイユ』には、当時のプルーストの願望や夢、実生活や経験が比較的そのまま反映されており、その点では『失われた時を求めて』の趣とは異なっているが、『失われた時を求めて』の成立をめぐる研究資料としても貴重なものにもなっている[29]。また自身のスノビズムを自覚していたことも散見され、〈スノブである小説家は、スノブを描く小説家になるだろう〉という予言を書いている[30]

第1巻刊行と大幅な構成変更

『失われた時を求めて』というタイトルがプルーストの書簡に表れるのは1913年5月半ばのことであり、当初プルーストは2巻ないし3巻で刊行が完結すると考えていた[31]1912年にほぼ原稿が出来ていた3篇構成の『失われた時を求めて』では、1913年11月に第1巻が『スワン家のほうへ』としてグラッセ社から刊行された時点では、翌年以降に第2巻『ゲルマントのほう』、第3巻『見出された時』の刊行が予告印刷されており、このとき第2巻はすでに活字を組む作業が開始され、3巻目の草稿も大まかな形で出来上がっていた[1][注釈 3]

しかし、この段階では「マリア」という名前が付けられていた語り手の恋人とのエピソードなどがその後に大幅に改稿加筆されたことにより(名前もアルベルチーヌに変更される)、それからプルーストの最晩年にいたる8年間の間に作品が2倍以上の分量に膨れ上がることになった[33][1]。この大幅な変化は、1913年から1914年にかけて起こった青年アルフレッド・アゴスチネリフランス語版との間の事件が影響を与えていると考えられている[1][34]

1907年に避暑地カブールで出会った自動車運転手のアルフレッド・アゴスチネリは、その後1913年に職を求めてプルーストの元を訪れた[26]。プルーストはアゴスチネリを秘書として採用し、その妻と称するアンナと共に住み込みで雇い入れた[22][26]。プルーストと彼との間の詳しい関係は分からないが、プルーストはこの青年に非常に執心するようになり、アゴスチネリが金銭をプルーストに使わせた挙句に1913年12月にアンナと共にニースに逃亡し、さらには1914年5月に彼がパイロット訓練飛行中に事故死したことで強いショックを受けた[22][34][26]。アゴスチネリは「マルセル・スワン」という偽名を使って飛行士学校に登録していた[22]

作中での恋人アルベルチーヌとのエピソードは、この現実の事件と平行関係を持っており、作中では、アゴスチネリとの間に交わした書簡をそのまま語り手とアルベルチーヌとの間のやりとりとして引用することさえしている[1]

晩年の加筆修正作業

上記のような大幅な改稿を経て、1918年頃、結末に至るまでのノート20冊分の清書原稿が書き上げられた[1]。しかし、プルーストはこの清書原稿から打たせたタイプ原稿にさらに大幅な加筆と手直しをするのが常で、さらに印刷ゲラにも大規模な修正が加えられるため、この段階ではまだ完成とは言い難い状況であった[1]

晩年のプルーストは、生の残りの時間に追われるようにしてゲラの修正と加筆の作業を急いだが、1922年11月に第5篇『囚われの女』の修正作業中に息を引き取った[1]。このため、第5篇の途中から最終巻までは本当の意味では完成していない状態であり[1][13]、特に最終巻『見出された時』はまとまった作品として見るにはかなり乱雑な様相を呈している[35]

さらに後年になって、プルーストは死の直前に第6篇『消え去ったアルベルチーヌ』に大幅な変更を施していたことが明らかになった[1]。これは新たに発見されたタイプ原稿をもとに曽孫のナタリー・モーリヤック(モーリアックの孫にもあたる)が1987年に刊行したもので、この元原稿でも『消え去ったアルベルチーヌ』というタイトルが付けられていたことが明確となり、最初に考えていた『逃げ去る女』という題名と迷っていたプルーストが最終的に『消え去ったアルベルチーヌ』に決めていたことも明らかになった[1][注釈 4]

この原稿では、アルベルチーヌの思い出に関する記述など、それまで書かれていた内容が大幅に削除されてしまっている[1]。そのために後に続く最終巻と内容的に繋がらなくなってしまっており、プルーストがどういう考えでこの改稿を行なっていたのか明らかではないが、作品の一部をどこかの雑誌に発表するために余分なところをカットしていただけではないかという説もある[1]


注釈

  1. ^ 加筆修正のための余白がなくなると、プルーストは図のように大きな付箋を貼り付けてその上に加筆を行なっていた。プルーストは、この付箋を「パプロル」と呼び、草稿段階でも多用した[1]
  2. ^ 一般的な長編小説の10冊分にあたり、『源氏物語』の数倍の長さである[6][9]
  3. ^ 最初の第1巻刊行前の1913年7月には、第1巻を『一杯のお茶のなかの庭』あるいは『名前の時代』にし、第2巻を『言葉の時代』、第3巻を『物の時代』にする構想もあった[32]
  4. ^ プルーストは初め第6篇に『逃げ去る女』という題を考えていたが、このころタゴールの小説が同じ題で仏訳されていたため『消え去ったアルベルチーヌ』という題も考えて迷っていた[1]
  5. ^ 明示されていないが、これは大人になった語り手が療養所(サナトリウム)で過ごしている時代であることは、前段階の草稿などから看取されている[7][20]
  6. ^ 少年期の回想の舞台コンブレーフランス語版のモデルになったのは父親アドリヤンフランス語版の故郷である、シャルトル大聖堂で有名なシャルトルから西に20キロメートルの所にある田舎町のイリエである[36]。小説が有名になったため、現在の町の名前はイリエ=コンブレーフランス語版と呼ばれている[3][6]
  7. ^ このように、ある特定の香りから、それにまつわる過去の記憶 (Involuntary memoryが呼び覚まされる現象は、心理学神経学では「プルースト現象」として知られているが、これは本作に由来する命名である[37]
  8. ^ ルイ・ド・ルヴロワ・ド・サン=シモン公爵フランス語版は『回想録』の中で、ルイ14世を「並以下の知性」「滑稽きわまる愚行」などと辛辣に批判し、ルイ14世の死後の宮廷の様子も記していた[32]

出典

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  75. ^ “(寄稿)困難な時代に与える勇気 プルースト生誕150年、現代への指針 吉川一義:朝日新聞デジタル”. (2021年10月7日). https://www.asahi.com/articles/DA3S14964673.html 
  76. ^ 処女作の単著は『心の間歇』(弘文堂書房・世界文庫、1940年)を刊行。新書判の抜粋訳






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