大宰府
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/07 15:04 UTC 版)
関係人物
- 藤原広嗣
- 吉備真備
- 大伴旅人(天智天皇4年(665年) - 天平3年(731年)) - 神亀5年(728年)から天平2年(730年)の晩年、大宰帥。大宰府へ赴任した直後に妻丹比郎女を失った。
- 大伴家持
- 大伴坂上郎女
- 山上憶良
- 小野岑守 - 大宰大弐として赴任中の弘仁14年(823年)に公営田の導入を建議、翌天長元年(824年)に多褹国を大隅国に編入した。
- 菅原道真 - 大宰員外帥として赴任するが、大宰府政庁には一度も登庁せず。
- 小野好古 - 天慶3年(940年)藤原純友の乱を鎮圧するために追捕山陽南海両道凶賊使長官として九州へ下向、大宰府にて純友を撃退。鎮圧後、天慶8年(945年)大宰大弐に任ぜられた。天徳4年(960年)従四位下(後に従三位)参議にして大宰大弐に再任(兼任)。康保4年(967年)致仕するまで務める。
- 藤原隆家 - 眼病治療のために自ら望んで大宰権帥として赴任。その後、刀伊の入寇に遭遇し、現地での陣頭指揮を執った。
- 橘公頼
- 平季基 - 大宰大監、万寿年間(1024年~1028年)に、後に日本最大の荘園となる島津荘を拓く。
- 高階成章 - 太宰大弐(天喜3年(1055年) - 天喜6年/康平元年(1058年))。「欲大弐」の綽名がある。妻は歌人の大弐三位。
- 藤原長房 - 太宰大弐(寛治6年(1092年) - 寛治8年/嘉保元年(1094年))。
- 平清盛 - 保元3年(1158年)、大宰大弐となる。
- 武藤資頼 - 嘉禄2年(1226年) - 嘉禄3年/安貞元年(1228年)、武士ながら大宰少弐に任ぜられ、少弐氏の祖となる。
異説・俗説
九州王朝説では、大宰府が、古代北九州王朝の首都(倭京)であったと主張している。しかし査読のある学術雑誌において九州王朝を肯定的に取り上げた学術論文は皆無であり、九州王朝説および関連する主張は科学的な根拠の欠如したいわゆる俗説に過ぎないとの強い指摘が、専門家によりなされている。一方で、大宰府には天子の居所であることを示す「紫宸殿」「朱雀」「内裏」といった地名が残っていること、山城である神籠石の分布が畿内ではなく大宰府を防衛していることが明らかであること、条坊築造時期が藤原京条坊築造時期より古い可能性があり、その場合、日本最古の条坊がなぜ大宰府に築造されたのかの合理的説明が難しいなど、一概に俗説に過ぎないと言い切れない面もある[要出典][独自研究?]。
大宰府政庁跡
花の見頃など
大規模イベント
- 太宰府市民政庁まつり(毎年10月)
- 不定期に、薪能、第九演奏会などが開催されることもある。
- 2002年(平成14年)10月5日に、南こうせつ・海援隊・谷村新司・さだまさしが『ゆめ未来コンサート 都府楼の歌人たち』を開催。
- 2015年(平成27年)10月31日に、ももいろクローバーZがコンサート『水城・大野城築造 竈門神社創建1350年 九州国立博物館 開館10周年 日本遺産認定記念 ももクロ男祭り2015 in 太宰府』を開催。最後には、本人たちが近隣にある太宰府天満宮の本殿前に移動し、特設ステージを設けて歌唱奉納を行った[19]。
交通
- 都府楼前駅からまほろば号北谷回り・内山ゆき、若しくは太宰府駅、西鉄五条駅からまほろば号都府楼前駅ゆきに乗車し「大宰府政庁跡」下車すぐ
- ■博多駅から西鉄バス400系統に乗車し「筑陽学園前」下車、北へ徒歩5分 (420m)
- 博多バスターミナル・福岡空港から西鉄バス「太宰府ライナーバス旅人」に乗車し「大宰府政庁跡」下車すぐ。
- 自家用車
- 九州自動車道 太宰府インターチェンジから3km。
- 駐車場あり。ただし狭く、政庁跡周辺は駐車禁止なので公共交通機関の利用を勧める。
周辺情報
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