名古屋アベック殺人事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/08 13:11 UTC 版)
犯人
犯人は少年K(事件当時19歳6か月)、少年A(当時17歳)、男B(当時20歳1か月)、少年C(当時18歳10か月)、少女D(当時17歳7か月)および少女E(当時17歳1か月)の計6人である[33]。事件当時唯一成人していたBを除き、いずれも実名報道はされていないが[112]、Kについては実名が記載されている文献が存在する(後述)。6人は常に行動を共にする固定的な不良グループではなく、同棲していた男女を中心に自然に集まった遊び仲間だった[113]。
事件前、K・A・Bの3人は山口組系弘道会内の暴力団「薗田組」の構成員になっていたが、K・Aの2人は事件当時には組を離脱し、鳶職として働いていた[114]。BはKより年長ではあったが、薗田組の先輩格であるKに終始追従する形で行動していた[115]。また、Cは弘道会内「高山組」幹部の若衆になっていた[56]。
犯人(年齢)[114] | 求刑[91] | 第一審判決[32] | 控訴審判決[48] | 確定判決[50][46] |
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少年K(19歳6か月) | 死刑 | 無期懲役 | 無期懲役 | |
少年A (17歳) |
無期懲役 | 無期懲役 | ‐ | |
男B(20歳1か月) | 懲役17年 | 懲役13年 | 懲役13年 | |
少年C(18歳10か月) | 懲役5 - 10年の不定期刑 (判決までに成年した場合は懲役15年) |
懲役13年 | ‐ | |
少女D(17歳7か月) | 懲役5 - 10年の不定期刑 | 懲役5 - 10年の不定期刑 | ||
少女E(17歳1か月) |
犯人らは事件当時、名古屋市港区内のKのアパートや[注 2][113]、同区野跡三丁目の市営住宅「市営南汐止荘」[注 3](座標)[118][119]にあったCの部屋(C-18号室)をたまり場にしていた[84]。後者のうち、たまり場になっていたのは棟続き住宅の一軒である[120]。この市営住宅は、伊勢湾台風で被災して家を失った人々のために名古屋市が建設したもので、事件当時は戸建て・団地を含めて869世帯が居住していたが、居住者の把握は徹底されていなかった[116]。入居に当たっては市営住宅管理課を通すのが決まりで、未成年者だけでは住めない一方、申請すれば増改築もできたが、事件直前にも無届けの改築があった[120]。たまり場になっていた部屋は事件当時も、書類上は1961年(昭和36年)に入居した人物が入居者になっていたが[116]、この人物は1970年(昭和45年)に無断退去しており[121]、事件発生時点では行方不明になっていた[84]。それ以降、事件発生までに5、6人入居者が代わっており、暴力団関係者がいたこともあった[116]。彼らはそこでシンナー遊びにふけったり、ラジオの音量を最大限に上げて騒ぐなどしていたため、管理する名古屋市住宅管理公社に住民から苦情が寄せられていたこともあった[116]。また、1982年(昭和57年)6月以降は使用料(家賃)が滞納されており[注 4][121]、1985年(昭和60年)12月に催告書を送付して以来、管轄する汐止管理事務所職員が同室を訪れ、家賃支払いを求めていた[注 5][84]。事件発生直前の1988年2月8日昼に職員が同室を訪問した際、犯人グループの1人と思われる若者[注 6]が応対に出たため、退去を伝えた[84]。しかし、応対した少年は「ある人から許可を得て住んでいる」と答えたため、職員は少年に対し、市役所に直接来るか電話で事情を説明するよう話した[122]。市建築局はその後も特に措置を取っておらず、少年らによる不正使用の状況は続いていたと見られ[122]、市側が何らかの対応を検討していた矢先に事件が発生した[121]。
グループ6人のうち、Kを除く5人 (A・B・C・D・E) はシンナー吸引の経験があった[123]。中でもB・C・D・Eの4人は、事件前からセントラルパーク(名古屋市中区栄)にたむろし、シンナーを吸引していた[124]。当時、一般の塗料店などはシンナーを少年に販売しなくなっていたが、事件前年の1987年(昭和62年)初め以降、有力な資金源としてシンナー密売に目をつけた暴力団が、セントラルパークにたむろしていた不良少年たちにシンナーを密売するようになった[83]。同年夏以降、セントラルパークの噴水塔付近にたむろし、シンナーを吸引しながら暴走を繰り返す不良少年たちが「噴水族」を自称するようになり、愛知県警察によって組ぐるみでシンナー密売を行っていた山口組系暴力団組長以下、組員や少年約300人が検挙されるなどしていた[83]。この厳しい摘発により、同年10月以降「噴水族」は姿を消したが、事件直前には噴水塔より北の名古屋テレビ塔付近にたむろしてシンナーを吸引する「テレビ塔族」が出現していた[83]。犯人らのたまり場になっていたC宅には「栄噴水族二代目リーダー」のメモ書きがあった[82]。
少年K
K・S | |
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生誕 |
1968年8月20日(55歳)[54] 日本:長野県東筑摩郡山形村[54] |
住居 | 「政和荘」[注 2]( 日本:愛知県名古屋市港区)[56] |
国籍 | 日本 |
出身校 | 名古屋市中川区の中学校[54] |
職業 | 鳶職[32] |
罪名 | 強盗致傷、殺人、死体遺棄、強盗未遂[125] |
刑罰 | 無期懲役 |
犯罪者現況 | 服役中 |
親 | 名古屋市職員の父親[注 7][127]、母親 |
有罪判決 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 愛知県・三重県 |
標的 | アベック |
死者 | 2人(大高緑地事件の被害者XおよびY) |
負傷者 | 2人(金城埠頭第2事件の被害アベック) |
凶器 | ロープ[126] |
逮捕日 | 1988年2月27日[29] |
収監場所 | 岡山刑務所[51][52][53] |
主犯格である少年K(事件当時19歳6か月)は[114][33]、1968年(昭和43年)8月20日、長野県東筑摩郡山形村で次男として出生した[54]。実名(姓名)のイニシャルはK・Sで[注 8][128][129][130][131]、『中日新聞』『判例タイムズ』 (1989) では「A」[32][35]、『判例時報』 (1990・1997) では「B」の仮名で表記されている[注 9][137][138]。
第一審で死刑[35][32]、控訴審で無期懲役の判決を宣告された[125][48]。1997年1月7日付で無期懲役刑が確定し[111]、岡山刑務所に服役中である(現在55歳)[51][52][53]。事件当時は名古屋市港区在住[注 2]で、鳶職に就いていた[32]。
Kの生い立ち
中尾幸司 (2004) によれば、Kの父親は癇癖(怒りっぽい性格)が強い性格の名古屋市職員である[注 7][127]。鮎川潤 (1997) によれば、母親はパートタイムで保母をしていた[140]。兄弟については、『中日新聞』 (1988) は「兄弟3人」[141]、『朝日新聞』 (1988) は「両親と兄弟姉妹の7人家族」と[142]、『週刊文春』 (1988) は兄と弟が各1人いると報じている一方[139]、『サンデー毎日』 (1988) では「四人兄妹の二番目」と報じられている[143]。また、中尾 (2004) は2人の妹がいると述べている[127]。出生後に名古屋市に転居し[144]、中川区内の棟割長屋で暮らしていた[145]。1975年(昭和50年)4月に同区の小学校に入学[54]。小学校時代は快活でお調子者な少年だったが、父親が厳格で子供の躾に厳しかったことから、Kは父親に対する反発心を強めた一方、自身も権威的に振る舞う父親の態度を模倣し、権威に対する憧れを強めていった[145]。
1981年(昭和56年)4月には同区の中学校に入学したが、中学校在学中の1983年(昭和58年)4月27日[54]、当時3年生だったKは[145]、同区内で原付1台を窃取し、名古屋家庭裁判所に送致された[注 10][54]。同年12月13日・14日にも同区内で原付3台を窃取し、再び家裁送致されたが、中学卒業後の1984年(昭和59年)3月26日、名古屋家裁で不処分になっている[54]。
Kが中学3年生だった当時、Kが在学していた中学校は校内暴力が激しかったが、当時のKの担任教諭はKの人物像について、身体が小さくて大人しく、あまり目立たない少年だったと証言している[146]。また、中学時代のKの恩師の1人は、長倉正知の取材に対し、当時のKの人物像について「普通の目立たない子」と証言した一方、飽きっぽい面があり、気が小さく、中学では不良たちに使われていたようなタイプだったとも証言している[143]。Kの母親は、息子が窃盗事件を起こして家裁送致された際、家裁の裁判官に対し「(息子は)人に引きずられるようなところがあった」と証言している[147]。
中学卒業後
同年4月、名古屋市北区内の職業訓練校(愛知総合職業訓練校)[145]に入校したが、約2か月後、同級生が校内で発生した不審火について嫌疑をかけられたことから、教師と話しているうち、その態度が気に入らないと憤慨して暴力を振るったため、退校している[54]。その後、中川区内のうどん店で約1か月働いた後、同年9月ごろに隣人[注 11]から紹介を受け、三重県上野市(現:伊賀市)にあった個人経営の内装業者に就職した[54]。
Kは住み込みで2年ほど働いたが[148]、夜遊びが過ぎて体調を崩し、雇い主がKの健康管理に自信を失った上、K自身も給料が安いことなどから仕事に嫌気が差したため、1986年(昭和61年)9月に退職した[54]。当時の雇い主はKについて「口数の少ない、おとなしい子」で、仕事にも真面目に取り組んでいた一方、夜が強く、徹夜に近い仕事をしても平気だったという旨を述べている[149]。
薗田組入り
その後、Kは名古屋市港区の居酒屋の手伝いをしていたが、1986年11月ごろに弟やその友人とともに交通事故を起こした[54]。この際、弟の友人が薗田組の構成員の名前を出したため、弟が薗田組に連行されてしまう[54]。Kは弟を連れ戻すため、薗田組事務所に赴いたところ、組員から度胸を買われたことや、弟釈放の条件として組への加入を求められたことからそれに応じ、組の構成員になった[54]。それ以来、組の新入りとして使い走りや電話番などをしていた[71]。同年12月23日深夜には愛知県津島市で、食料品店に侵入する窃盗未遂事件を起こして検挙される[54]。この時は試験観察を経て[150]、1987年1月13日、名古屋家裁で保護観察処分に処された[54]。
しかし、その保護観察期間中の同年2月12日にも津島市内で現金などを盗み[注 12]、同年3月20日には名古屋家裁から試験観察に付され、刈谷市内の運輸会社に補導委託された[151]。Kはその会社の寮に住み込み[55]、少年鑑別所の勧めに従ってトラック運転手として勤務していたが[150]、この会社にはKと同様の少年が数人おり、常に自由を拘束されるようになった[152]。同社の社長はそのような非行少年たちを積極的に採用し、更生の場としていたのである[153]。しかし、Kは「暴力団に戻れば気楽に生活できる」と考え、同年7月21日[注 13]には寮を無断で退出し、会社も退職扱いになった[55]。
小笠原和彦の取材に応じたKの元同僚は、当時のKは職場では普通の感じだった一方、休日にKに連れられて組事務所に行った際には、上の者には礼儀正しかった一方、下の者には命令していたという旨を述べている[154]。また、加藤幸雄(控訴審でKの心理鑑定を担当)は、かつてKが組の兄貴分の車を破損して手酷い目にあった経験を有していることを挙げ、それが大高緑地事件で自分たちの車を壊されたことに憤慨するきっかけになった可能性を指摘している[155]。
少年A
Kとともに殺害実行犯であった少年A(事件当時17歳)は[114]、1971年(昭和46年)2月5日、名古屋市熱田区で長男として出生した[55]。『中日新聞』や『判例タイムズ』 (1989) では「B」[32][55]、『判例時報』 (1990・1997) では「D」の仮名で表記されている[注 14][137][138]。第一審で無期懲役の判決を宣告され[35][32]、控訴せず確定[46]。事件当時は会社員の父親と母親、高校生の弟との4人家族だった[157]。
1977年(昭和52年)4月、中川区の小学校に入学したが[55]、小学校時代に父親[注 15]の事業が不振に陥り、父親が勤労意欲を失って酒浸りになったため[注 16][150]、一家は経済的に困窮[55]、母親が家計を支えていた[158]。粗末で汚れた衣服を着ていたことや[160]、学校に給食費を支払うことができないなどの理由から、級友たちからのいじめに遭う[55]。一方、父親はBに対し「売られた喧嘩は買え」「喧嘩をするなら負けるな」などと言い、多少の問題行動については放任するような教育傾向があった[55]。そのため、次第に暴力的に問題を解決しようとする行動様式が身につき[159]、小学校3年時には級友に暴力を振るい、1981年4月に中川区内の別の小学校へ転校して以降も、級友に暴力を振るう傾向が見られた[55]。また、体調を崩して自律神経失調症と診断されたこともあり、中学時代まで夜尿症が続いていた[160]。Aは小中学校時代から勉強嫌いだった[150]。
1983年4月に中川区内の中学校に入学したが、1984年6月ごろ、病欠のため授業についていけなくなったことや、女子生徒に交際を申し入れたが断られて精神的に落ち込んだことが加わり、勉学に対する意欲を失い、不良生徒と交遊してシンナーを吸引するようになる[55]。また、中学在学時には父親からの勧めもあって飲酒するようになり、2年生ごろからはシンナー吸引と同時に喫煙もするようになったが、父親は息子Aの非行を制止するどころか「そんな中途半端なことをやってなくて、どうせやるなら、番長を張るぐらいやれ」と煽っていた[161]。同年8月16日には同級生と原付を盗んで警察署で注意を受け、同年10月3日には区内でトラックの荷台からシンナー入り一斗缶を盗んだほか、11月10日には愛知県海部郡弥富町(現:弥富市)で空き巣未遂事件を起こし、児童相談所に通告された[55]。1985年(昭和60年)2月にも菓子などを盗む事件を2回起こし、児童福祉司による指導の措置を受けたが、1986年初旬から同級の女子生徒と交際を開始したことから、生活態度は落ち着き、同年3月14日に中学校を卒業すると、翌15日付で指導措置も解除となった[55]。一方、Aの母校である中学校の教頭は在学時のAについて、反抗的なところはなく、校外ではともかく校内では問題は起こしていなかったと証言している[143]。また、学校関係者によれば、Aは盗みの際も見張りばかりで、「仲間についていくだけの、性格の弱い子」だった[157]。
中学卒業後の1986年4月、中川区内の鉄工所に就職した[55]。それ以降、時々1人で母校の中学を訪れ、「元気でやっています」と人懐っこそうに話していたが[157]、他の従業員との交流が乏しいなどの理由から、同年8月に退職[55]。約1か月後、港区内の建設会社に土工として就職し、このころには先述の少女との結婚も真剣に考えるようになっていたが、彼女が同年10月に高校を中退したことから、彼女に暴力を振るったことで関係に亀裂が生じる[55]。1987年7月ごろに彼女と別れると、生活意欲を失い、再びシンナーを吸うような生活に戻っていたが、同年8月ごろに中学時代の友人から「ヤクザになれば女はすぐできるし、金も手に入る」と誘われ、薗田組の構成員になった[55]。
Kの弁護人を務めていた多田元は、Aの性格について「情緒不安定で小心な反面、虚勢を張って、力の強い者に自己同一視することで精神的安定を得ようとする傾向」があると述べている[159]。
男B
共犯者の1人であり、事件当時6人で唯一成人していた男B(事件当時20歳1か月)は[115]、1968年1月27日、鹿児島県薩摩郡東郷町で長男として出生した[54]。本名のイニシャルは「T・K」で[32]、『判例タイムズ』 (1989) では「C」[32][54]、『判例時報』 (1990・1997) では「A」の仮名で表記されている[注 17][137][138]。第一審で懲役17年[35][32]、控訴審で懲役13年の判決を宣告され[125][48]、1997年1月7日付で懲役13年の刑が確定[50]。事件当時は名古屋市中村区本陣通五丁目88番在住[113]。
出生翌年の1969年(昭和44年)にBの両親が離婚したため、Bは愛知県一宮市在住の父方の祖母に預けられた[54]。祖母に養育され、1974年(昭和49年)4月に一宮市内の小学校に入学したが、小学校3年生ごろから怠学が始まった上に、店舗から玩具を窃取する事件を起こしたことや、祖母が高齢でBを養育し続けることが困難になったことから、1977年11月22日からは半田市の情緒障害児短期治療施設「ならわ学園」に収容され、同施設の小学校に転校した[54]。卒業後の1980年(昭和55年)3月24日以降は一宮市の養護施設「仲好寮」に収容され、同年4月には同市内の中学校に入学、1983年3月に卒業している[54]。
中学校卒業直後の1983年3月15日、蒲郡市内の製鋼会社に採用されたが、1984年8月に母が姉を伴ってBのもとを訪ねてきた[54]。それ以降、母と数回面会した結果、同年12月30日には同社を退職し、名古屋市北区で母や姉と同居するようになった[54]。まもなく母が再婚したため、義父とも同居するようになり、義父の勤務していた同区内の電気会社に就職したものの、母が毎晩のように飲酒しては別れた前夫(Bの実父)のことで当たり散らしてくることや、義父との折り合いも悪かったことから、1985年7月には母の家を出て、神奈川県川崎市武蔵小杉の新聞店に住み込みで働くようになった[54]。1986年4月に同店を退職して名古屋市に戻り、自動車運転免許を取得した上で、9月以降は布団販売会社に就職して出張販売に携わったが、同販売がいわゆる催眠商法だったことに嫌気が差したため、同年10月26日には出張先の栃木県足利市で仕事から逃げ出した[54]。そこで所持金に困ったBは、通行中の女性から現金2,000円在中のハンドバッグをひったくって検挙され、同年12月1日には名古屋家裁で試験観察に付された[注 18][54]。その後、名古屋市守山区の財団法人「立正園」に収容され、同所から同区内の土木会社に出社して道路舗装工事に従事したほか、園長の紹介を受け、同区内の運輸会社で働き始めた[54]。
しかし、その約10日後に配達先で偶然義父と出会って喧嘩になり、会社を解雇されて社員寮を飛び出し、付近を徘徊するようになる[54]。その間、義父が社員寮に残されたBの荷物を無断で質入れしたことから、Bは母や義父の態度に失望し、それ以降はセントラルパーク付近で不良集団と交際し、シンナーを吸うなどするようになった[54]。
少年C
共犯の1人である少年C(事件当時18歳10か月)は[114]、1969年4月26日、名古屋市瑞穂区で長男として出生した[56]。『中日新聞』では「C」[32]、『判例タイムズ』 (1989) では「D」[56]、『判例時報』 (1990・1997) では「C」の仮名で表記されている[注 19][137][138]。第一審で懲役13年の判決を宣告され[35][32]、控訴せず確定[46]。
Cの母親は名古屋市水道局の用務員で、Cには弟2人がいる[164]。1975年(昭和50年)11月4日に両親が協議離婚して以降、Cは母親に養育され、1976年(昭和51年)4月には天白区の小学校に入学[56]。1981年には名古屋市名東区の小学校に転校し、1982年(昭和57年)4月には同区内の中学校に入学したが、その間は父親不在の家庭で、長男として自身が家庭の中心にならなければならないという意識を持ち続け、家庭内では自分の気持ちを抑えつつ、母親からの期待に沿った行動を取っていた[56]。母親もCのこの態度に安心していたことや、仕事が忙しくてCを監督する余裕がなかったことから、Cを放任する傾向にあったが、Cは中学校では不良生徒と交友するようになり、入学後の1982年6月、早朝にバッティングセンターで金品を物色しているところを検挙された[56]。この時は警察署で注意を受けたが、翌1983年9月7日、名東区内で小学生から現金入りの財布を喝取する事件を起こしている[注 20][56]。
1985年3月に中学校を卒業すると、同月下旬から東区の理容店で働き始めたが、1986年ごろに店主から「理容仕事に向いていない」と指摘を受けて退職[56]。それ以降は小牧市の寿司店、西加茂郡三好町(現:みよし市)の炉端焼店、名古屋市港区の寿司店と勤務先を転々とし、1987年4月ごろから港区内の自動車学校に通い始めた[56]。しかし、同校で顔見知りになった人物に誘われ、同年夏ごろからは夜にセントラルパークに出向き、不良仲間とシンナーを吸引したり、自動車を暴走させたりして交遊するようになった[56]。Cは母親に対し「暴走族のリーダーになれと言われている」と打ち明けたことがあったが、母からは「暴走族のリーダーは頭が良くて、知恵が湧いて、体力がある人がなる」という認識であり、Cが栄で不良徒輩と交遊していることにも気づいていなかった[161]。
少女D
従犯である少女D(事件当時17歳7か月)は[114]、1970年(昭和45年)7月12日、名古屋市中区で長女として出生した[56]。『中日新聞』や『判例時報』 (1990・1997) では「E子」[32][137][138]、『判例タイムズ』 (1989) では「E」の仮名で表記されている[注 21][56]。第一審で懲役5年以上10年以下(不定期刑)の判決を宣告され[35][32]、控訴せず確定[46]。事件当時は両親と弟2人との5人家族だった[142]。
Dは1974年2月ごろに母親が就職したため、専ら祖父母に養育され、1977年(昭和52年)4月に愛知県海部郡甚目寺町の小学校に入学[56]。両親がDの目の前で激しい夫婦喧嘩をするような家庭で生育し、親子間の親密な交流も乏しかった[165]。Dは小学校時代から、友人たちに対し支配的、自己中心的に振る舞う傾向が見られた[165]。1983年4月には町内の中学校に入学し、1986年3月に卒業したが、授業妨害や他校生徒への暴力などといった問題行動を起こしていた[56]。中学卒業後の1986年4月には名古屋市中区の調理師専門学校に入校したものの、家庭内の生活に物足りなさを感じていたため、次第に外泊するようになり、同年6月以降は中村区内の飲食店でアルバイトを始めた[56]。しかし長続きせず、同年8月に専門学校を卒業して以降も就職せず、昼ごろ起床しては夜間に無為徒食中の友人と交遊するという生活を送るようになる[56]。同年10月8日、Dは母親と口論の末に家出し、同日夜以降はセントラルパーク付近で不良仲間と交遊し、本格的にシンナーを吸うようになる[56]。
少女E
Dとともに従犯である少女E(事件当時17歳1か月)は[114]、1971年(昭和46年)1月20日、名古屋市千種区で長女として出生した[55]。『中日新聞』では「D子」[32]、『判例タイムズ』 (1989) では「F」[55]、『判例時報』 (1990・1997) では「F子」の仮名で表記されている[注 22][137][138]。第一審で懲役5年以上10年以下(不定期刑)判決を宣告され[35][32]、控訴せず確定[46]。事件当時は父親と彼の内妻、弟・妹との5人家族だった[142]。
Eの父親は遊び人の型枠大工で、母親も家出癖があり、夫婦喧嘩が絶えなかった[152]。Eは1977年4月に名古屋市守山区の小学校に入学したが、1981年1月22日に両親が協議離婚し、それ以降は自ら家事手伝いを行うなどしていた[55]。1983年4月に守山区内の中学校に入学したが、1984年5月ごろ、父親と交際し妊娠中だった当時17歳の女性が同居を開始[55]。同年9月7日、Eの父親は彼女と婚姻したが、Eの継母となった彼女はEとわずか4、5歳しか離れておらず、Eは継母と積極的に会話しなかったため、継母からは「自分はEに嫌われている」と思われ、折り合いが悪くなる[注 23][55]。父親が妊娠中の継母を気遣ったため、Eは同年7月ごろ、西春日井郡師勝町(現:北名古屋市)の父方の叔父宅に預けられた[55]。そこでも叔父の妻と折り合わず、同年8月ごろには中川区の父方の伯母宅に預けられ、それに伴って同年9月、中川区内の中学校に転校するも、そこでも伯母と折り合わなかった[55]。そのため同年12月、昭和区の養護施設に入所するとともに同市内の中学校に転校、1986年3月に同校を卒業した[55]。なお、Eの父親は1987年8月、入居先の大家にも行き先を告げず、それまで住んでいた守山区内の借家から転居している[157]。
卒業後の1986年4月、名古屋市南区の美容室に就職したが、親しかった同僚が退職したため、同年9月に同室を退職[55]。セントラルパークで不良仲間と交遊し始め、シンナーを吸うようになり、その後は知人宅を転々として同年11月ごろ、中村区の美容室に転職した[55]。しかし、そこも約1か月で退職し、1987年7月ごろからは約1か月間、中区のスナックにホステスとして勤めていた[55]。同年8月12日1時5分ごろには、中区新栄二丁目23番7号付近の道路で、酒気帯び状態で原付を無免許運転しており、一連のアベック襲撃事件に加えてこの件でも起訴されている[76]。
- ^ a b c d e f 少年法第51条:罪を犯すとき十八歳に満たない者に対しては、死刑をもつて処断すべきときは、無期刑を科する。この規定を適用されて無期懲役刑が確定した事例は、1966年から2007年2月までの間で、最高裁が把握している限りではAの事例を含めて3例ある[38]。A以外に同条文が適用された主な判決には、混血少年連続殺人事件(広域重要指定106号事件)の犯人(事件当時16歳)に対し千葉地裁松戸支部(浅野豊秀裁判長)が1971年9月9日に宣告した判決[39][40]、金沢市夫婦強盗殺人事件の犯人(事件当時17歳)に対し金沢地裁(堀内満裁判長)が2006年12月18日に宣告した判決[41](2007年2月13日付で確定[42])がある[38]。
- ^ a b c d e f g h 事件当時Kが住んでいた「政和荘」は、名古屋市港区辰巳町11番地26(座標)に所在していた[174](現在の辰巳町11番地26の1)[175]。犯行途中、Kは「政和荘」近くのパーキングに駐車して「政和荘」に戻っているが、その時に駐車したパーキングも港区辰巳町である[73]。
- ^ 「市営汐止住宅」とする報道もある[116]。同住宅は、現在の市営みなと荘7棟駐車場付近に位置していた[117]。
- ^ 1983年(昭和58年)10月に家賃滞納問題が発生したとする報道もある[84]。
- ^ 事件発生時点で約5年間分の家賃が滞納されていた[122]。
- ^ 10歳代の少年[122]。
- ^ a b 『週刊文春』 (1988) はKの父親について、Kの同僚が「市バスの運転手」と述べていることを報じている[139]。
- ^ 「死刑廃止の会」がまとめた死刑事件の被告人一覧(1991年7月10日時点)や、『年報・死刑廃止』の1996年・1997年版、および集刑 (1992) には、犯人Kの実の姓名(イニシャルは「K・S」)が掲載されている[128][129][130][131]。また『高等裁判所刑事裁判速報集』に収録された判決文にも、Kの姓(イニシャル「K」)が掲載されている[132]。
- ^ その他の仮名表記は、『オール讀物』 (1989) では「富村久仁雄」[133]、『週刊新潮』では「藤原和彦」[134]、真神博 (1990) では「島田芳夫」[135][96]、中尾幸司 (2004) では「石田滋」[112]、佐藤大介 (2021) では「中川政和」[136]。
- ^ ただし、同年9月13日に名古屋家裁で審判不開始となった[54]。
- ^ 小笠原和彦 (1988) によれば、Kにこの職場を紹介した人物はKの父親の知人である[148]。
- ^ 中尾 (2004) によれば、侵入した先は友人宅である[150]。
- ^ その前日(7月20日)付で名古屋家裁により、別件保護中との理由から不処分となっており、処分決定後も継続して勤務することが決まっていた[55]。
- ^ 、『オール讀物』 (1989) では「古河克彦」[156]、『週刊新潮』では「犬丸公一」[134]、真神博 (1990) では「徳岡伸雄」[96]、中尾幸司 (2004) では「西山照久」[112]。
- ^ Aの父親は近隣住民によれば暴力団関係者で、息子に対し「将来、ヤクザにでもなれ」と言っていたという[158]。息子Aが事件を起こした当時はトラック運転手として働いていたが、『週刊文春』の取材を受けた際、息子が逮捕されたことを聞いても動ずる様子もなく「勘当したから今は何をしているかまったく知らない」と述べている[139]。
- ^ 多田はAの父親が酒浸りになる前、家業の不振に加え、彼の娘(Aの妹)が突然死するという不幸に見舞われていたことを述べている[159]。
- ^ 『オール讀物』 (1989) では「田家哲介」[162]、真神博 (1990) では「高田伸一」[96]。
- ^ 運輸会社就職後の1987年5月7日付で、名古屋家裁から保護観察処分に付されている[54]。
- ^ 『オール讀物』 (1989) では「舟橋定弘」[133]、『週刊新潮』では「佐竹安雄」[134]、真神博 (1990) では「伊藤竜一」[96]、中尾幸司 (2004) では「菅原義夫」[163]。
- ^ この事件については1984年1月19日、名古屋家裁で不処分になっている[56]。
- ^ 『オール讀物』 (1989) では「倉山スミ子」[156]、『週刊新潮』では「横寺恵美」[134]、真神博 (1990) では「寺田理花」[96]、中尾幸司 (2004) では「寺前恵美」[164]。
- ^ 『オール讀物』 (1989) では「大林明美」[166]、『週刊新潮』では「筒見英子」[134]、真神博 (1990) では「井上好子」[96]、中尾幸司 (2004) では「井田由紀」[167]。
- ^ なお、鮎川潤 (1992) は『法廷での態度から判断するとF子〔=E〕は父親に対しては悪い感情は抱いてないようである」と述べている[168]。
- ^ Cが犯行に用いたグロリア(C車両)は、名古屋市南区の山口組系暴力団組長が1986年11月に購入したものだったことが報じられている[172]。
- ^ 金城埠頭は当時、夜間は人が少なく、公衆電話も埠頭内に計5か所しかなかった[185]。
- ^ a b 2022年現在は19時閉門(翌7時開門)となっている[190]。
- ^ 冒頭陳述によれば、この時にはAもYへの暴行に加わっていた[194]。
- ^ 中尾幸司 (2004) は冒頭陳述書からの引用として、AはCがYを姦淫している間、その様子を見ながらYの口に自己の陰茎を含ませていた[195]。
- ^ チェイサーに取り付けてあったもの[59]。
- ^ この車の運転手は早朝トレーニングのため、大高緑地公園に来ていた[193]。2人はその人物に対し、「車を当てられたんだけど、証人になってもらえますか」と言っていた[59]。
- ^ 「オートステーション」は、名四バイパス(国道23号)沿いの海部郡弥富町中原ろの割(現:弥富市富島2丁目9番地)に所在していた(座標)[203]。同所は現在、「出光(株)西日本宇佐美東海支店 2号名四弥富SS」が所在している[204]。
- ^ KたちがCの上役にどう説明するかを相談していた際、Dは話の途中で「(朝食を)食べたから出る」と言って退店しており、次いでEも「眠いから」との理由で、途中から入店してきたBとともに退店している[206]。
- ^ Kは第一審でBの公判に出廷した際も、同店における謀議は本気ではなかったことを証言している[205]。
- ^ 「ホテルロペ39 ロペ39中部観光(有)」は、中村区城屋敷町1丁目15番地に所在しており(座標)[214]、2021年時点でも同地で「ホテルロペ39」として営業している[215]。
- ^ 喫茶店「まいか」[61]。名古屋市熱田区西野町一丁目32番地(座標)に「メゾン西野」があり[218]、同ビル1階に「喫茶まいか」が入居していた[219]。
- ^ a b Kたちが犯跡隠滅のために利用した洗車場は、「コイン洗車大高」[207](名古屋市緑区大高町字丸ノ内:座標)[220]。2022年現在は「(株)ピットストップモーターズ」が所在している[221]。
- ^ 喫茶店「TOTO」[61]。名古屋市港区入場一丁目312番地に「ハイツ幹」(座標)が所在しており、同ビル1階に「コーヒーTOTO」[222](「喫茶とと」とも)が入居していた[223]。
- ^ 同地点(熱田区一番1丁目21番18号)には、2022年時点で「ガスト 熱田一番店」がある[225][226]。
- ^ 名古屋市中村区本陣通6丁目(座標)には1988年当時、「喫茶店ぴーく」があり、その西側には名古屋競輪場駐車場があった[236]。後者の駐車場は2022年現在、かつや名古屋本陣通店(本陣通6丁目35番地の1)に、「喫茶店ぴーく」の所在地は同店の駐車場になっている[237][238]。
- ^ 判決文では「奥那須ケ原」と表記されているが、三重県公式サイトでは「奥那須ケ原」の表記と[239]、「奥那須ヶ原」の表記が混在している[240]。伊賀市上阿波奥那須ケ原地区の位置図:参考[240][241]。
- ^ 名古屋地裁 (1989) 、名古屋高裁 (1996) の認定より[76][69]。検察官の冒頭陳述書では、KとAが立っていた位置が正反対(KはYの左側、Aは右側)になっている[247]。
- ^ 冒頭陳述書によればこの際、Yがうつ伏せに倒れ、彼女の脈を診たBも「脈がない」と言ったが、Kは念のため、Xの両手を縛っていた洗濯用ロープで改めてYの首を絞めることにしている[248]。
- ^ 当時の大高緑地 - 金城埠頭間の道路における主な経路は、国道23号・国道1号を経由するもので[78]、経路の総距離は約15 - 16 kmである[189]。
- ^ Cは毎週木曜日の夜、実家に電話で近況報告することを習慣としていた[177]。
- ^ a b 少年鑑別所では、留置された被疑者に附添人をつけることが認められている。通常は弁護士が附添人になるが、願い出れば保護者が附添人になることも可能である[262]。
- ^ 法律扶助協会は、身寄りや金銭的余裕がない人物に弁護士などを斡旋する機関で、ここからの紹介でついた附添人は一般刑事事件における国選弁護人に相当する[262]。
- ^ 中学校の英語の教科書[269]。
- ^ 同日付で、5人は少年鑑別所を退所した[183]。
- ^ 内訳は、無期懲役の仮釈放中に殺人を再犯した事例(3件)と、少年時代に殺人・死体遺棄・強姦致傷などの前歴を有するほか、住居侵入・準強盗未遂で懲役刑に処され、その刑期満了直後に殺人を犯した事例(1件:「事件一覧表」における整理番号12番)[281]。前者の主な例には、整理番号244番[280](豊中市2人殺害事件[282])がある。
- ^ 1件のみ。「事件一覧表」における整理番号:158番[283](富山・長野連続女性誘拐殺人事件[284])。
- ^ 全10件。例:「事件一覧表」における整理番号266番[283](本庄保険金殺人事件[285])、274番[283](長崎・佐賀連続保険金殺人事件[286])。
- ^ 例:「事件一覧表」における整理番号211番[287](飯塚事件[288])。
- ^ 「事件一覧表」における整理番号246番[287](池袋通り魔殺人事件[282])。
- ^ 例:「事件一覧表」における整理番号80番[287](市原両親殺害事件[290])。その他の事例には、生きたまま浴槽内に頭部を沈めて殺害した事案(整理番号111番)、知人を自己の加虐的暴力的嗜好の対象とし、数々の虐待を重ねてついに殺害した事案(同245番)がある[291]。
- ^ その他の事例は、整理番号314番[293](いわき2人射殺事件[294])、同341番[293](秋田児童連続殺害事件[295])など。
- ^ 刑集 (1983) より[300]。『中日新聞』の報道では、同年1月の記事で「38件」[299]、同年6月の記事で「40件」(法務省などの調べ)となっている[301]。
- ^ 後述の28件を上告棄却の年代別に見ると、昭和20年代が12件(前半5件・後半7件)、昭和30年代が11件(前半6件・後半5件)、昭和40年代前半が2件である[302]。
- ^ 後述の28件のうち、昭和40年代後半、昭和50年代前半の各2件[302]。
- ^ この9件のうち1件は、後に再審で元死刑囚の無罪が確定した財田川事件(1957年1月22日に最高裁で上告棄却判決)である[303]。
- ^ 分離公判では、個別に被告人質問が行われた[315]。
- ^ 当初は同年3月14日に開廷される予定だったが[356]、延期された。
- ^ 愛知県弁護士会所属[22]。
- ^ 加藤は1995年秋、共犯者2人の証人尋問における供述を基に弁護団に対し、「犯罪心理鑑定書」を補充し、共犯者全員の鑑定もしくは証人尋問を求める意見を述べた[380]。
- ^ 1996年3月末時点で[389]、名古屋拘置所に収監されていた死刑囚は、名張毒ぶどう酒事件の奥西勝[390]、半田保険金殺人事件のIおよびH(旧姓T)[390][391]、日建土木事件の死刑囚N、勝田清孝、先妻家族3人殺害事件の死刑囚Mの計6人がいたが[392]、奥西以外は2012年以前にいずれも死刑を執行されており、奥西も2015年に八王子医療刑務所で病死している。また当時、最高裁上告中の死刑事件被告人が1人(富山・長野連続女性誘拐殺人事件の女性死刑囚M)[393]、高裁控訴中の被告人1人がそれぞれ同拘置所に収監されていたが[129]、前者(1998年に死刑確定)は2022年時点でも存命である一方[394]、後者[同年7月2日に名古屋高裁(松本光雄裁判長)で控訴棄却判決、2001年に死刑確定]は死刑確定後の2003年に獄中死している[395]。
- ^ a b 『朝日新聞』声の欄(1996年12月23日、および26日)にはそれぞれ、被害者の立場や結果の重大性などの観点から、控訴審判決を非難する投書が掲載されている[398]。
- ^ このSに対する死刑求刑や死刑判決の宣告は、ともに少年事件としては本事件のKが受けて以来、約5年ぶりである[400][401]。
- ^ これら2判決はいずれも第一審の無期懲役判決を不服とした検察官が控訴して死刑を求めていたが、いずれも棄却されたものである[408]。甲府信金OL誘拐殺人事件の判決理由で、東京高裁は「近年の死刑の適用傾向を見ると、殺害された者が1名の事案については、やや控えめな傾向がうかがえる」として「死刑には、躊躇を覚えざるを得ない」と結論づけていた[409][410]。
- ^ 殺人事件で第一審判決を宣告された被告人の人数は、1996年が567人だった一方、2004年は795人で、この間の増加割合は約1.4倍である[416]。一方、第一審から上告審までのいずれかの審級で死刑判決を受けた被告人の人数は、1996年は8人だったが、「連続上告」がなされた1997年 - 1998年を境に急増し(1997年は9人、1998年は19人)、2004年は42人(1996年の5倍強)となっている[416]。
- ^ 犯罪被害者等給付金支給法第8条1項[271]:「犯罪被害を原因として犯罪被害者又はその遺族が損害賠償を受けたときは、その価額の限度において、犯罪被害者等給付金を支給しない。」[450]の規定により、被害者遺族が給付金額を上回る損害賠償を受けた場合、給付金は支給されない[271]。
- ^ 内訳は逸失利益・死亡慰謝料・近親者慰謝料・葬儀費で、Xの逸失利益は2,326万3,459円、Yの逸失利益は2,618万3,026円[451]。また、両者ともに死亡慰謝料は2,000万円、近親者慰謝料は500万円、葬儀費は100万円である[451]。
- ^ 岡山刑務所の受刑者数は2015年末時点で585人であり、その約3分の1(約200人)が無期懲役囚である[462]。同刑務所では社会復帰に向けて受刑者を努力させるため、服役態度などによって受刑者を1 - 5類に分類し、区分ごとに面会や手紙の回数、所内での集会の参加回数などを決めているが、「1類」の受刑者は約30人である[31]。Kは2022年時点で19年間、模範囚(規則違反なし)であり[463]、通常は30分程度まで認められている面会時間を60分まで延長されたり、独房内でヘッドフォンを用いてCDの音楽を聴いたり[464]、通常は21時までとなっている消灯時間を22時まで延長して作業を行ったりすることが許可されている[31]。
- ^ 佐藤大介はKへの取材を通じて文通を重ね、2007年(平成19年)からは知人として面会を続けていた[461]。
- ^ 無期懲役囚の仮釈放に当たっては、住居や仕事の確保が審査対象となっているため、家族や有事から見放された無期懲役囚にとっては負担が大きく、また収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある[470]。佐藤もある元刑務官の「40歳代以降に無期懲役になった受刑者は仮釈放されず、獄死するケースが多い。無期懲役は実質的に終身刑になっている」という声を取り上げている[470]。2005年(平成17年)から2014年(平成26年)までの間に仮釈放された無期懲役囚は54人である一方、その間に獄死した無期懲役囚はその3倍近くに当たる154人に達している[471]。
- ^ これは2005年(平成17年)の改正刑法成立により、有期刑の上限が30年になったことに伴う措置である[472]。2014年に仮釈放された無期懲役囚は6人で、平均収容期間は31年4か月である[471]。
- ^ 『朝日新聞』 (2002) によれば、その運用を指示した1998年6月の通達は「終身か、それに近い期間、服役すべき受刑者がいると考えられる」と明記した上で、指定事件については管轄の地検・高検が最高検と協議した上で、判決確定直後に刑務所側へ「安易に仮釈放を認めるべきではなく、仮釈放申請時は特に慎重に検討してほしい」「(将来)申請する際は、事前に必ず検察官の意見を求めてほしい」と文書で伝えた上で関連資料を保管し、刑務所や地方更生委員会から仮釈放について意見照会があった場合、そのような経緯や保管資料などを踏まえ、地検が意見書を作成するよう指示している[474]。
- ^ 「作業報奨金」は2006年までは「作業賞与金」と呼ばれていた[479]。これは刑務作業の給与のことで、時給10円から数十円程度である[53]。
- ^ 彼はこの手紙を書いた2010年当時、一・二審で死刑判決を受けて上告中だった[482]。
- ^ Fは2007年3月以降、広島拘置所内で1日6時間の労務作業を行い、初めて得た1か月分の報奨金約900円を供養代として、初めてFに妻子を殺害された被害者遺族の男性に送金しているが、Fの関係者はFがそのような行動を取るようになった要因の1つとして、FがKと文通を始めたことを挙げている[485]。
- ^ 1984年4月25日に横浜地裁川崎支部で宣告された判決[532]。
- ^ 永山事件の審理で第一審:死刑→控訴審:無期(原判決破棄)→上告審:破棄差戻し→差戻控訴審:死刑(控訴棄却)と量刑が揺れ動いていたことや、日本では死刑存置論が優勢だった一方、西欧先進国では成人を含めて死刑廃止が大勢になっていたことなど[535]。
- ^ a b 第三章 少年の刑事事件 > 第二節 手続
- 第五十条(審理の方針) 少年に対する刑事事件の審理は、第九条の趣旨に従つて、これを行わなければならない。
- ^ a b 第二章 少年の保護事件 > 第三節 調査及び審判
- 第八条(事件の調査) 家庭裁判所は、第六条第一項の通告又は前条第一項の報告により、審判に付すべき少年があると思料するときは、事件について調査しなければならない。検察官、司法警察員、警察官、都道府県知事又は児童相談所長から家庭裁判所の審判に付すべき少年事件の送致を受けたときも、同様とする。
- 2 家庭裁判所は、家庭裁判所調査官に命じて、少年、保護者又は参考人の取調その他の必要な調査を行わせることができる。
- 第九条(調査の方針) 前条の調査は、なるべく、少年、保護者又は関係人の行状、経歴、素質、環境等について、医学、心理学、教育学、社会学その他の専門的智識特に少年鑑別所の鑑別の結果を活用して、これを行うように努めなければならない。
- 第八条(事件の調査) 家庭裁判所は、第六条第一項の通告又は前条第一項の報告により、審判に付すべき少年があると思料するときは、事件について調査しなければならない。検察官、司法警察員、警察官、都道府県知事又は児童相談所長から家庭裁判所の審判に付すべき少年事件の送致を受けたときも、同様とする。
- ^ 清水は1964年に検事任官され、1987年に東京地検刑事部副部長から名古屋地検公判部長に転出、1989年に札幌高検刑事部長へ転出するまで同職を務めた[544]。1995年に退職するまでに本事件の公判指揮のほか、千葉大チフス菌事件・ロッキード事件・フライデー襲撃事件・戸塚ヨットスクール事件・あさま山荘事件・埼玉愛犬家連続殺人事件など、様々な事件の捜査・公判を担当したが[544]、彼が関与した死刑の論告は本事件のみである[21]。
- ^ 同規則2.2 (a) で「少年」 (juvenile) とは、「各国の法制度の下で犯罪のゆえに成人とは異なる仕方で扱われることのある児童 (child) もしくは青少年 (young person) 」と定義されている[549]。
- ^ 同事件では暴力団員6人(20歳代の成人2人と、18歳および19歳の少年計4人)が、強盗や婦女暴行罪で起訴、家裁送致となっている[556]。
- ^ 犯行動機は主に上納金などの金欲しさで、一夜に3組を襲撃したこともあった[556]。また、女性への乱暴は口封じの狙いもあった[556]。
- ^ 最高裁は1992年の通達で、特別保存の対象を「全国的に社会の耳目を集めた事件」などと規定した[573]。2019年に東京地裁で重要な憲法解釈を含む訴訟記録の廃棄が判明したことを機に、名古屋家裁は2020年7月、最高裁の呼びかけに応じて運用要領を作成し、「主要日刊紙2紙以上に終局に関する記事が掲載された事件」などといった具体的な基準を策定した[573]。
- ^ これらの事件のうち、木曽川・長良川連続リンチ殺人事件と西尾ストーカー殺人事件は名古屋地検に逆送致された事件である[573]。
固有名詞の分類
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