ヴォルガ川 支流

ヴォルガ川

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/22 19:49 UTC 版)

支流

下流より記載

河川施設

9つの大規模水力発電所と多数の人工湖がヴォルガ川に沿って続いている。人工湖には以下のようなものがある。上流より記載

歴史

古代から中世

ダム湖に沈んだカリャージントヴェリ州)の街の鐘楼
ヴァリャーグの船は、水系から水系の間の最も距離の縮まる地点で川から引揚げられ、低い分水嶺を超えて隣の水系の川で下ろされた(連水陸路)。ヴァリャーグはこうしてラドガ湖方面からヴォルガ川へと進出している

古代のアレクサンドリアの学者、プトレマイオスは著書『ゲオグラフィア(地理学)』(第5巻、第8章、アジアの地図のその2)においてヴォルガ下流に触れている。彼はこの川をスキタイ人の呼び名である「ラ(Rha)」と呼んだ。プトレマイオスは、ドン川とヴォルガ川は上流でつながっていて、極北の楽園・ヒュペルボレオイ(Hyperborea)の山々から流れてくると考えていた。

ヴォルガ下流は、インド・ヨーロッパ祖語を話した原インド・ヨーロッパ民族クルガン仮説を参照)の文明のゆりかごと広く信じられている。紀元1世紀から10世紀ころまでにフン族ほか多くのテュルク遊牧民が移住しスキタイ人と入れ替わった。

その後、ヴォルガ川流域はアジアからヨーロッパにかけての民族移動に大きな役割を果たした。11世紀から12世紀にかけてはルーシ族などのヴァイキングヴァリャーグ)が北欧からヴォルガ川に進出し、ヴォルガ川からカスピ海を経てペルシャバグダードに至る交易路を築いた[16]ほか、ヴォルガ川流域やカスピ海沿岸を盛んに襲った。ラドガ湖畔にあるラドガを拠点としてバルト海とヴォルガ上流からカスピ海を結ぶこのルートは、ドニエプル川方面からコンスタンティノープルへと向かう、いわゆる「ヴァリャーギからギリシアへの道」とともに、ヨーロッパの東方交易の基幹ルートを一時になっており、バルト海沿岸に多量の銀貨と繁栄をもたらした[17]

ヴォルガ川上流とその支流域ではフィン・ウゴル語派の諸民族に代わりロシア人による諸公国が栄え、ロシア人の政治や精神文化のゆりかごとなった(これらの公国のあった古都は「黄金の環」と呼ばれている)。これらの諸公国の上位には、ウラジーミル・スーズダリ大公国があり、同大公国はヴォルガ川上流域をほぼその版図としていた。ヴォルガ中流域より下流はテュルク系民族の世界であった。ヴォルガ川中流では、テュルクブルガール人の強力な政権ヴォルガ・ブルガールがヴォルガ川とカマ川の合流点付近に成立し農業や交易で栄えた。ヴォルガ下流からカスピ海にかけての広い範囲にはハザール王国があった。ハザールがヴォルガ河口に建設した首都イティル(Atil、アティル)、ヴォルガ下流のサクシン(Saqsin、サクスィーン)、同じく後にモンゴルがヴォルガ下流に建てたサライなどは東西交易で栄え、中世の世界でも有数の都市として知られていた。

ハザールは衰退し、11世紀ごろテュルク系キプチャク人に取って代わられたが、その後キメック人英語版キメック・ハン国チュヴァシュ語版カザフ語版英語版(743年 - 1220年)を興した。

モンゴルの支配

13世紀になると、ヴォルガ流域にモンゴル人が侵入した。モンゴル人はまず1223年にヴォルガ・ブルガールへと侵攻し、この時はサマーラ屈曲部の戦いにおいて撃退されたものの、1226年に再度侵攻してヴォルガ・ブルガールを滅亡させた。さらにモンゴルは西進を続け、モンゴルのルーシ侵攻によってヴォルガ川上流域もほとんどはモンゴルに占領された。さらに下流域のキプチャク人も滅ぼされ、ヴォルガ流域はすべてモンゴル領となった。モンゴル軍を率いるバトゥは1242年、モンゴル帝国本国からの自立を決し、中央政権(黄金のオルド)の置かれたサライの街を中心とするジョチ・ウルス(キプチャク汗国)が建てられた。キプチャク汗国はヴォルガの中流・下流域を直接支配下に置いてものの、上流部のルーシ諸公国に関しては間接統治にゆだねた。しかしその統治はかなり厳しいもので、後年「タタールのくびき」と呼ばれるようになる。そうした中、それほど開発の進んでいなかったヴォルガ川上流部はモンゴル軍侵攻の害もルーシの他地方に比べれば軽微なものであったため、他地域からの住民が流入し、「黄金の環」の諸都市はこれ以降、ロシアの中心として力をつけていくこととなった。その中でも、もっとも力をつけてきたのがモスクワ大公国であり、トヴェリ公国スーズダリ公国(このころはニジニ・ノヴゴロドに首都を移しており、ニジェゴロド・スーズダリ公国と呼ばれる)といった諸公国との抗争を制し、1392年にはニジェゴロド・スーズダリ公国を併合、1485年にはトヴェリ公国を併合し、15世紀末にはヴォルガ上流域を支配下に収めることとなった。

ロシア時代

プガチョフの乱の戦闘の経過 (1773—1775)
プガチョフ軍(赤)

やがて15世紀に入るとジョチ・ウルスの中央政権が弱体化し、ヴォルガ川流域では1438年にヴォルガ中流にカザン・ハン国、ヴォルガ下流には1466年にアストラハン・ハン国が建国された。1480年にはモスクワ大公国が独立し、1502年にはジョチ・ウルスは首都サライをクリミア・ハン国に攻略されて滅亡した。これ以降も上流域がロシア人、中下流域がトゥルク系の両国の支配下にある状況はしばらく続いたが、16世紀なかばにはモスクワ大公国イヴァン4世(イヴァン雷帝)がこの両国に進攻を開始し、1552年にはカザン・ハン国が滅亡、1556年にはアストラハン・ハン国が征服され[18]、アストラハン滅亡を危惧したオスマン帝国の侵攻も退けて、ヴォルガ流域はすべてモスクワ大公国領に統一された。この統一は以後現代にいたるまで続き、ヴォルガ流域はロシアの中心部としての扱いを徐々に受けるようになっていった。手中に収めたヴォルガ川本流の支配を確実なものとするため、モスクワ大公国はフョードル1世次代に、ヴォルガ川沿いにサマーラ(1586年)、ツァリーツィン(1589年)、サラトフ(1590年)と次々と要塞を建設していき、これが現在の中下流域のヴォルガ沿岸の重要都市の起源となった。17世紀初頭の大動乱期にはポーランドのロシア侵入によって首都モスクワが陥落し、一時ロシアの中央政権が不在となったが、この際もヴォルガ沿岸まではポーランド・リトアニア共和国軍は到達することができず、とくにヴォルガ上・中流の諸都市はロシアの反攻の拠点となった。1611年、ニジニ・ノヴゴロドでクジマ・ミーニンによって義勇軍が結成され、ドミートリー・ポジャールスキー率いる義勇軍はポーランド軍を撃破してモスクワを解放した。これを受けて1613年に召集された身分制議会ゼムスキー・ソボルで、コストロマに隠棲していたミハイル・ロマノフが新たにツァーリに選出され、ロマノフ朝が成立した。

ロシアがカザン・ハン国やアストラハン・ハン国といったテュルク系諸政権を征服した後もノガイ・オルダカルムイク人といった遊牧勢力がヴォルガ中下流域に出没を続け、この地方の統治は安定しなかった。ヴォルガ中下流域は辺境であり続け、17世紀なかばにはドン・コサックの頭領、スチェパン・ラージン(ステンカ・ラージン)によってヴォルガ川水系は下流から上流まで、さらにカスピ海沿岸のペルシャまで荒らされ、彼の組織した反乱軍は1670年には明確に反乱の形をとって、アストラハン、ツァリーツィン、サラトフを占領し、さらにヴォルガを遡って皇帝のいるモスクワにまで迫ろうとし、シンビルスク(現ウリヤノフスク)を攻囲したものの、政府軍に鎮圧された[19]。こうした状況を改善するべく、1719年にロシア皇帝ピョートル大帝の命令で人口希薄なヴォルガ川沿岸の空白地の耕作へドイツ人の移民誘致が始まり、タタール人との緩衝地帯形成が期待された。この政策によってヴォルガ中下流域の開発が進められると同時に、これらの新定住民の増加によってこの地域で遊牧を行っていたカルムイク人は圧迫され、1771年に彼らの父祖の地にあたる東トルキスタンイリ地方へ半数が帰還した。残った半数は主にヴォルガ川下流域の南側、現在のカルムイク共和国周辺へと移動した。このカルムイク人の移動を止めることのできなかったロシア政府の威信は失墜し、1773年にはエメリヤン・プガチョフによってプガチョフの乱が勃発した。プガチョフ軍はカザンを焼き払い[20]、ツァリーツィンなどヴォルガ川中下流域の広い範囲を荒らしまわったが、翌1774年には鎮圧された。この大反乱の後、ヴォルガ中下流域の開発はさらに進められた。エカテリーナ2世も引き続き奨励策を取ったためドイツ人の流入も続き、19世紀末にはヴォルガ・ドイツ人は179万人に達し、ヴォルガ沿岸は大きく開発された。また、ロシアと中央アジアとの交易においても、この時期のヴォルガ川は大きな役割を果たしていた。中央アジア交易を握るブハラ商人は、ブハラから北西に進んでカスピ海に出、船でカスピを横断したのちアストラハンからヴォルガ川をさかのぼり、ニージニー・ノヴゴロドの定期市へと向かうルートをこの交易のメインルートとしていた。ニージニー・ノヴゴロド定期市は北の森林地帯やタイガと南のステップ地帯、さらにはそこを越えて中央アジアとの交易の結節点となっていた。この交易ルートは、鉄道建設が本格化する19世紀後半まで命脈を保っていた。

イリヤ・レーピン『ヴォルガの舟曳き』。はしけを川上に引いて歩く船曳き人夫(Burlak)を描いたもの

1917年にロシア革命が勃発すると、ヴォルガ川沿岸地域も政治的混乱に巻き込まれた。はじめはボルシェヴィキが各地で支配を確立したものの、1918年に入ると各地で白軍が蜂起し、ロシア内戦が勃発した。ヴォルガ川沿岸でもチェコ軍団が蜂起してシズラニ、サマーラ、カザンを相次いで占領した。カザンにはイデル=ウラル国、サマーラには憲法制定議会議員委員会が設立され、赤軍と激しい戦いを繰り広げたものの、やがて鎮圧されていった。新しく成立したソヴィエト政府はヴォルガ川の開発を進め、各地にクイビシェフ水力発電所スターリングラード水力発電所など用の巨大なダムを建設してヴォルガ川の治水、航路安定、電力確保を目指した。第二次世界大戦時、カフカスに向かって侵入したドイツ軍はじめ枢軸国軍は、ヴォルガ川がドン川に向かって大きく曲がる地点にある要衝スターリングラード(現在のヴォルゴグラード)の攻略を目指してソ連軍との間で激しい野戦・市街戦が行われた。このスターリングラード攻防戦はロシア史上のみならず世界戦争史上でも最も激しい戦いであり、地域は焼け野原と化した。戦後スターリンは自己の名前を冠したこの地に、自然改造計画の一環として大規模な植林事業を行い、ショスタコーヴィチは事業とスターリンを礼賛する『森の歌』を葛藤を抱えつつ上梓した。大戦中、サマーラなどのヴォルガ川中下流域には多くの軍事工場が疎開し、これを中心として戦中・戦後にこの地方の重工業化がすすめられた。この重工業化のため、さらにヴォルガのダム建設は進み、1952年にはヴォルガ・ドン運河が完成して、ヴォルガ川とドン川は水路で接続されることとなった。


  1. ^ 『大漢和辞典 [巻一] 』、p.848
  2. ^ Great Volzhsko-Kamsky Biosphere Reserve, Russian Federation” (英語). UNESCO (2019年7月). 2023年3月11日閲覧。
  3. ^ a b ダリンスキー編『ロシア ソ連解体後の地誌』、p.87
  4. ^ ダリンスキー編『ロシア ソ連解体後の地誌』、p.96
  5. ^ Middle Volga Integrated Biosphere Reserve, Russian Federation” (英語). UNESCO (2019年4月19日). 2023年3月11日閲覧。
  6. ^ ダリンスキー編『ロシア ソ連解体後の地誌』、p.102
  7. ^ 「思わず息をのむ、最近できたロシアの橋10選」 ロシアNOW 2015年12月21日 2016年6月22日閲覧
  8. ^ a b Brunet『ロシア・中央アジア』、p.110
  9. ^ Volga-Akhtuba Floodplain Biosphere Reserve, Russian Federation” (英語). UNESCO (2019年4月18日). 2023年3月11日閲覧。
  10. ^ ダリンスキー編『ロシア ソ連解体後の地誌』、p.103
  11. ^ Volga Delta | Ramsar Sites Information Service”. rsis.ramsar.org (2008年8月1日). 2023年2月20日閲覧。
  12. ^ Astrakhan Biosphere Reserve, Russian Federation” (英語). UNESCO (2019年4月23日). 2023年2月20日閲覧。
  13. ^ 「ヴォルガ川」『ロシアを知る事典』新版
  14. ^ 加賀美、木村『東ヨーロッパ・ロシア』、pp.245-246
  15. ^ a b ダリンスキー編『ロシア ソ連解体後の地誌』、p88
  16. ^ 石坂、壽永、諸田、山下『商業史』、p34
  17. ^ 堀越『中世ヨーロッパの歴史』、pp.130-131
  18. ^ 栗生沢『図説 ロシアの歴史』、p.44
  19. ^ 栗生沢『図説 ロシアの歴史』、p57
  20. ^ Brunet『ロシア・中央アジア』、p118
  21. ^ http://www.noordersoft.com/indexen.html






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