ヴェルナー・フォン・ブラウン ヴェルナー・フォン・ブラウンの概要

ヴェルナー・フォン・ブラウン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/28 04:05 UTC 版)

ヴェルナー・フォン・ブラウン
Wernher von Braun
1964年5月
生誕 (1912-03-23) 1912年3月23日
ドイツ帝国
プロイセン王国 ポーゼン州英語版ヴィルジッツ
(現: ポーランドヴィエルコポルスカ県ヴィジスク英語版
死没 (1977-06-16) 1977年6月16日(65歳没)
アメリカ合衆国
バージニア州アレクサンドリア
出身校 ベルリン工科大学
ベルリン大学
職業 科学者
著名な実績 ロケット技術開発
影響を受けたもの ヘルマン・オーベルト
肩書き マーシャル宇宙飛行センター所長
アメリカ航空宇宙局計画担当副長官補
フェアチャイルド社副社長
配偶者 マリア・フォン・クヴィストルプ英語版
受賞 エリオット・クレッソン・メダル(1962)
ヴィルヘルム・エクスナー・メダル(1969)
アメリカ国家科学賞(1975)
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出生・少年期

ドイツ帝国東部ポーゼン(現ポーランド)近郊のヴィルジッツ英語版で貴族(ユンカー)の家に生まれた。父親はマグヌス・フォン・ブラウンドイツ語版男爵。後のヴァイマル共和政末期にフランツ・フォン・パーペン内閣で食糧農業大臣となった人物である。母親は彼がルター派堅信礼を行った時に望遠鏡を与えた。天文学宇宙分野への関心が、彼を生涯にわたって動機付けた。

1920年、ヴィルジッツがヴェルサイユ条約に基づいてポーランド領になると、彼の一家は他の大勢と同様にドイツ領へ移住し、シュレージエン地方で新生活を始めた。ここで、彼は音楽家パウル・ヒンデミットピアノを教わっている。

彼はロケットの先駆者ヘルマン・オーベルトの著した論文『惑星間宇宙へのロケットドイツ語版(1923年)』を手に入れるまでは、物理学数学が不得意であった。しかしその論文を手に入れてからの彼は数学に打ち込み、得意科目にするまで努力した。

ドイツ時代

学生時代

1930年ベルリン工科大学に入学した。ドイツ宇宙旅行協会にも入会し、ヘルマン・オーベルト液体燃料ロケットエンジンの試験を手伝った。

その後、工学士の学位を得てベルリン大学へ進み[2]、陸軍兵器局のヴァルター・ドルンベルガー陸軍大尉のもとで研究するよう取り計らった。フォン・ブラウンはドルンベルガーがすでに持っていたクマースドルフドイツ語版固体ロケット試験場の隣で研究を続け、2年後に物理学の博士号を受けた。しかし、このとき公表された博士論文は執筆された一部だけであり、完全な論文が公表されたのは1960年になってからであった。

ミサイル開発

ペーネミュンデの博物館に展示されるV-2

1934年の暮れまでに、フォン・ブラウンのグループは2.4 km以上の高度に達するロケットを2基射ち上げることに成功したが、この頃すでにドイツロケット協会はなく、ロケットの実験は新たな体制では禁止されていた。軍用の開発だけが許可され、ドイツ北部のバルト海ペーネミュンデ村により大きな施設が建てられた。

V2ロケット

第二次世界大戦においてドイツ軍連合国軍に対して劣勢に傾いていた1943年、ドイツ国総統のアドルフ・ヒトラーはA-4(独:Aggregat 4型)ロケットを「報復兵器」として使うことを決定。フォン・ブラウンらのグループはロンドン攻撃のために、弾道ミサイルA-4の開発をすることになった。

ヒトラーの生産命令から14ヶ月後、最初の軍用A-4が、このころにはハインリヒ・ヒムラーの考えた名前の「V-2」と呼ばれることになっており、1944年9月7日にヨーロッパ西部に対し発射された。

その後ドルンベルガーは陸軍のロケット開発指揮官に、フォン・ブラウンは技術部長になった。彼らは航空機とジェット補助離陸(広義の「ジェット」の意味であり、空気を吸い込まないロケットも含む)用の液体燃料ロケットエンジン、長射程弾道ミサイル・A-4(V2ロケット)と、超音速対空ミサイルヴァッサーファル」を開発した。

逮捕

SSナチ親衛隊)とゲシュタポ(国家秘密警察)は、「(軍事兵器の開発に優先して)フォン・ブラウンが地球を回る軌道に乗せるロケットや、おそらくに向かうロケットを建造することについて語ることをやめない」、として[要出典]フォン・ブラウンを国家反逆罪で逮捕した。フォン・ブラウンの罪状は、「より大型のロケット爆弾作成に集中すべき時に、個人的な願望について語りすぎる」、というものであった。[要出典]

ドルンベルガーは、「もしフォン・ブラウンがいなければV-2は完成しない、そうなればあなたたちは責任を問われるだろう」とゲシュタポを説得し、フォン・ブラウンを釈放させようとした。しかし、それでもゲシュタポは許そうとせず、最後はヒトラー自らがゲシュタポをとりなし、ようやくフォン・ブラウンは解放された。そのときヒトラーは「私でも彼を釈放することはかなり困難だった」と言ったという。[3]

アメリカへの亡命

1945年5月にドイツは連合国軍に敗北することが確実な状況となり、フォン・ブラウンはペーネミュンデに戻ると直ちに彼の計画スタッフを招集し、どの国に亡命すべきか、どうやって亡命するかを決めるよう求めた。科学者たちのほとんどはロシア人を恐れ、フランス人は彼らを奴隷のように扱うだろうし、イギリスにはロケット計画を賄うだけの十分な資力がないと感じていた。残ったのがアメリカ合衆国である。

偽造した書類で列車を盗み出した後、フォン・ブラウンはアメリカ軍に投降するためにペーネミュンデから500人を連れ出した。その頃SSは、ドイツ軍の管理から逃れて記録を坑道などに隠しアメリカ軍と接触を試みているドイツ人技術者を、殺すよう命令を受けていた。

ドイツが連合国軍に対し降伏した後、最終的にロケットチームはアメリカの民間人を見つけ投降した。技術者たちの重要性を知ると、アメリカ軍は即座にペーネミュンデとノルトハウゼンに向かい、残されたV-2ロケットとV-2の部品を全て捕獲して2つの施設を爆破破壊した。アメリカ人は貨車300両分以上のV-2用スペアパーツをアメリカに持っていった。しかしフォン・ブラウンの生産チームの大半は間もなく進駐してきたソ連赤軍捕虜になった。

5月5日、フォン・ブラウンは当時アメリカ軍の大佐[要出典]で後に中国の宇宙開発を担う銭学森から最初の尋問を受け[4][5]、尋問の過程でフォン・ブラウンが作成した報告書「ドイツにおける液体燃料ロケット開発の調査とその将来の展望」は後のアメリカ合衆国の宇宙開発のロードマップを示すものだった[6]

ペーパークリップ作戦で渡米したドイツ人工学者達。最前列右から7番目のポケットに手を入れている人物がフォン・ブラウン博士。フォート・ブリスにて。

6月20日に、アメリカのコーデル・ハル国務長官はフォン・ブラウンのロケット専門家達を移送することを承認した。この移送はペーパークリップ作戦として知られる。その理由は、多数のドイツ人技術者が陸軍兵器廠に配属され、合衆国に来るよう選ばれた者は紙クリップで印付けられたからである。彼らが移送されたのはデラウェア州ウィルミントンのすぐ南方にあるニューカッスル空軍基地であった。その後ボストン市を経由し、海路ボストン湾英語版フォートストロング英語版にある陸軍情報部隊英語版の駐屯地に連れて行かれた。後に、フォン・ブラウンを除いた専門家たちはメリーランド州アバディーン性能試験場に移され、そこでペーネミュンデの文書を整理させられた。これらの文書があれば、工学者たちが中断していたロケット実験を続けられるのであった。

最終的に、陸軍兵器技術情報チームの本部長オルガー・N・トフトイ陸軍大佐の副官であったジェイムズ・P・ハミル陸軍少佐の命令で、フォン・ブラウンと126人のペーネミュンデの技術者達は、エルパソのすぐ北にある大きな陸軍基地テキサス州フォートブリス英語版で、彼らに与えられた新たな家に移された。彼らは合衆国で新生活を始めるにあたり、奇妙な状況にあることに気づいた。彼らは軍人の護衛なしにフォートブリスを出ることができなかったことから、時には自らのことを「平時捕虜」(Prisoners of Peace)――戦時捕虜(Prisoners of War)に掛けた洒落――と呼んだ。

フォートブリスに滞在中、彼らは産・軍・学の要員に複雑なロケットや誘導ミサイルに関する訓練と、ドイツからニューメキシコ州ホワイトサンズ性能試験場に運ばれてきた多数のV-2ロケットを修理し、組立て、そして打ち上げる手伝いをする仕事を課せられた。さらに、彼らは軍事と研究へ応用するロケットが持つ将来的な可能性について学ぶことになった。


  1. ^ Wernherヴェルンヘルと転写される (ドイツ語発音: [' vɛrnhɛr], Das Aussprachewörterbuch (6 ed.). Duden. p. 834. ISBN 978-3-411-04066-7 )。日本ではヴェルナーと表記されるが、関連はあるものの別の名前 (Werner, ドイツ語発音: [' vɛrnɐ], Das Aussprachewörterbuch (6 ed.). Duden. p. 834. ISBN 978-3-411-04066-7 ) 。
  2. ^ 西條寿雄 「ロケットと火薬の歴史書:その起源から近代ロケットの誕生まで」によると、フォン・ブラウンはベルリン大学で学んだ形跡はなく、工学士も取得していない。
  3. ^ 武田知弘「ナチスの発明」45ページ
  4. ^ Qian Xuesen: Scientist and pioneer of China's missile and space programmes”. インデペンデント (2009年11月13日). 2017年6月2日閲覧。
  5. ^ A dragon in winter”. Space Reviw (2008年1月4日). 2018年10月17日閲覧。
  6. ^ Chang, Iris (1996). Thread of the Silkworm. Basic Books. p.112 ISBN 978-0-465-00678-6.
  7. ^ フランケンシュタインの誘惑 科学史 闇の事件簿


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