ヴィクトリア朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/21 21:26 UTC 版)
科学、技術及び工学
産業革命は既に勢いづいていたが、工業化の効果が20世紀の大衆社会を生み出すのはまさにこの時期である。産業革命はイザムバード・キングダム・ブルネルらによって国中の鉄道網を発達させ、工学に大きな前進をもたらした。
ヴィクトリア朝では今日のように科学が学問分野となるまでに成長した。大学における科学の知的専門職が増えると共に、ヴィクトリア朝の多くの紳士たちが博物学に身を捧げた。
チャールズ・ダーウィンの『種の起源』が1859年に発刊され、民衆のものの考え方に非常に大きな影響を与えた。
1863年1月10日、メトロポリタン鉄道がパディントン駅とファリンドン駅間を結ぶロンドン地下鉄を開通させた。
1882年、白熱電灯がロンドンの街路に導入された。しかしあらゆる場所に行き渡るには、なお何年もの時間がかかった。
文化
ヴィクトリア女王の治世1837年から1901年は英国の黄金期であるばかりでなく、英国の美術にとっても黄金期、爛熟期であった。公私とも円満だった女王とアルバート公夫妻に象徴されるように、この時代には家庭の平和と、いや増す繁栄があり、それらが絵画が花開く条件につながっていた。
この時代はコンスタブル、ターナー、ランドシーア、ロセッティ、ミレー、バーン=ジョーンズ、レイトン、ワッツ及びホイッスラーらを生んだ。彼らはヴィクトリア女王の治世の間、生存していた(コンスタブルは例外で、ヴィクトリア女王の即位の年に死亡した)。およそ11,000名の一般に認められた画家が誕生した。凡庸な者も多かったが、高い才能と美術的な完成度を持つものも数多かった。
この時代は膨大な数の美術品を生み出し、一般大衆が展覧会に殺到した。その中には絵画の立派なコレクションを持つ富裕層もいた。ヴィクトリア女王は英国の芸術家を後援した。数多くの芸術家が貴族と同等の人間関係をもって上流社会と交わるという名誉ある地位を占めた。その結果、ヴィクトリア朝の英国は、これに先立ついかなる偉大な芸術時代とも比肩する創造性の開花を見ることとなった。
ヴィクトリア朝は多くの人に、感傷、保守的な道徳観と過度の上品さ、装飾過剰を連想させる。しかし、ヴィクトリア朝の画家はいまだかつてない産業革命の成果と、全面的な社会や道徳観の変化をうまく描き出した。ディケンズやジョージ・エリオットの小説、オスカー・ワイルドの演劇、及びテニスンやブラウニングの詩は、ヴィクトリア朝の画家に相手役を持っていた。この時期はエスタブリッシュメントと進歩主義的趣味の分離が始った。進歩主義はアバンギャルドの近代的な思想を生み出す。芸術家のグループが拡大し、ラファエル前派、「ザ・クリック」、セントジョーンズウッド派、クランブルックコロニー、ニューリン派として知られる集団が生まれた。ラファエル前派は、詳細と真実は、人生と芸術の両方において重要だと信じた。絵画において人と物は理想化されてはならない、いぼやしみの全てに至るまで実物のリアリティーを反映していなければならない、と考えた。一部の画家は単に独立を好み、コロニーや団体に所属するのを避けた。英国の芸術においては、多様性と個人主義こそが魅力を生むのである。
ヴィクトリア朝の画家たちは、さまざまな社会的・教育的背景を持つ幅広い層にも理解できるように作品を作ることを選んだ。これにより、娯楽と共に文化的向上を提供したのである。ヴィクトリア朝の芸術は大衆的芸術だった。絵画は、テクノロジーが絵画に競合するアトラクションを提供する今日そうである以上に、社会でより幅広く議論されていたのだった。ヴィクトリア朝芸術の並外れた豊かさ、多様性、複雑さは、裕福で複雑な社会を反映していた。絵画は、後にヴィクトリア時代として知られることになる英国の富と力の絶頂期の理想、社会構造、上昇志向を背景としていなければならなかった。産業革命も芸術に強い衝撃を与えた。ロマン主義とリアリズムはどちらも、この時代の力強い変化への反応と考えられている。
ヴィクトリア朝における特記すべき文化の項目は以下のとおり:
文学
小説
- エリザベス・ギャスケル
- ジョージ・ギッシング
- ジョージ・エリオット
- トマス・ラブ・ピーコック
- チャールズ・ディケンズ
- アーサー・コナン・ドイル
- アンソニー・トロロープ
- ウィルキー・コリンズ
- オスカー・ワイルド
- シャーロット・ブロンテ(カラー・ベル)
- エミリー・ブロンテ(エリス・ベル)
- アン・ブロンテ(アクトン・ベル)
- ウォルター・スコット
- ウィリアム・メイクピース・サッカレー
- ルイス・キャロル
- ロバート・ルイス・スティーヴンソン
- トマス・ハーディ
- ジョージ・ムーア
詩
- アルフレッド・テニスン
- ウィリアム・モリス
- ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ
- アルジャーノン・チャールズ・スウィンバーン
- マシュー・アーノルド
- クリスティーナ・ロセッティ
- エミリー・ブロンテ
- ライオネル・ジョンソン
- アーネスト・ダウソン
- W.B.イェイツ(若い時の)
- トマス・ハーディ
- ジェラルド・マンリー・ホプキンス
- A.E.ハウスマン
- ロバート・ブラウニング
- エリザベス・バレット・ブラウニング
評論・随筆
演劇
- メアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』及び吸血鬼小説の新しいジャンルの翻案ものの舞台。1849年、フランケンシュタインと吸血鬼の物語は最終的に『フランケンシュタイン;または吸血鬼の犠牲者』として融合する。1887年、フランケンシュタインの怪物と吸血鬼が北極まで追跡されるという演劇『モデルマン』がロンドンで公演される。
- オスカー・ワイルドのウィットとドラマ。『真面目が肝心』など。
- ヘンリック・イプセンのロンドン公演に関する論争。ジェームズ・ジョイスやジョージ・バーナード・ショーらはこの冷酷なノルウェー人の新しいドラマチックな様式を支持した。
- ヘンリー・アーヴィング
音楽
美術
- 建築におけるゴシック様式の復興
- ジョン・ラスキン、英国における最初の美術批評家
- 美術におけるラファエル前派(一部はラスキンによって触発された)
- 芸術家グループ The Clique
- ウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動
- アメリカの画家ジェームズ・マクニール・ホイッスラーの美的観念の影響
- ジャポニスム
- エドウィン・ランドシーアやルイス・ウェインらによる動物画
服飾
ヴィクトリア朝の服飾(ヴィクトリアちょうのふくしょく)は、ヴィクトリア時代(1830年代 - 1900年代前後)に英国やその植民地、自治領にて出現し、発展した様々な流行の服装により構成される。この時代には、服装や建築、文学、また服飾芸術や視覚芸術を含む流行において、たくさんの変化が見られた。
1905年ごろまでに、洋服はだんだんと工場で作られたものになり、多くの場合は決まった値段で大きなデパートなどで売られるようになった。服をオーダーメイドや家庭でつくることもいまだ多かったが、減少しており、新しい機械や素材によって、さまざまな方法により洋服は発展していった。
19世紀半ばに普及したミシンによって、家でもブティックでも、洋裁が簡単に行えるようになり、手縫いでは途方もない時間のかかるような、洋服への豊富な装飾が可能になった。機械の導入により、レースも古いものと比べて少しの値段でつくることができるようになった。新たに発展した、安くて鮮明な染料は、それ以前の動物染料や植物染料に取って代わった。
宗教と道徳
倫理観
ヴィクトリア朝の道徳(Victorian morality)といえば一般的には、極めて行動規範的で保守的、性的抑圧と寛容性のない「お上品さ」といった特質で語られることが多いが、また同時にジャーナリズムと議会制民主主義の発展、女性問題など、さまざまな問題に光が当たり始めた時代でもあった。奴隷制、売春、児童労働、労働者問題、教育、動物福祉、アヘン貿易などが活発に議論されるようになった。一方、同性愛は違法のままでありつづけた。
奴隷制
1807年の奴隷貿易の全面禁止以降以降、1833年には大英帝国全体で奴隷制が廃止され奴隷所有が違法とされた。ヴィクトリアはその4年後の1837年に王位に就いた。ウイリアム・グラッドストンの政権は、奴隷制が廃止されれば壊滅的な影響を受けると主張するカリブ海のプランテーション所有者、グラッドストンの父であるグラッドストン準男爵らに二千万ポンドの補償金を支払った。イギリス海軍は大西洋をパトロールし、アフリカの奴隷をアメリカに送ろうとしている船を停止させ、見つかった奴隷を解放した。英国はアフリカの直轄植民地シエラレオネに解放奴隷を輸送した。ノバスコシア州から解放された奴隷は、シエラレオネの首都を設立し、そこをフリータウンと名付けた。
児童労働
1833年代、シャフツベリー卿が中心となって、労働現場での児童労働を軽減するため一連の工場法制定に向けて動いた。10時間法が導入され、綿および羊毛工場で働く子供は9歳以上でなければならない、18歳未満は、1日10時間または土曜日に8時間を超えて働かされないこと、25歳未満は夜勤ができないことなどを定めた。1844年の工場法では、 9〜13歳の子供は昼休みと1日最大9時間の上限が設けられた。工場所有者によるロビー活動と激しい抵抗にもかかわらず、多少なりとも子供のための法的保護が設けられたが、チャールズ・ディケンズの小説が中産階級の人々に知らしめたようなロンドンの孤児、ストリートチルドレンの苦しみは続いた。
売春
ロンドンは産業革命の影響で薄暗いスモッグの街となり、イースト・エンドの貧民街には多くの女性たちが売春婦として暮らしていた。ヴィクトリア朝の道徳観は女性のステレオタイプを大きく二分した。コベントリー・パトモアが描く「家庭の天使」にみられるような女性像を家庭の守護天使として理想化する一方で、外の女性、「堕落した女性」あるいは「ファム・ファタール」とみなされた売春婦は、社会的に浄化する必要のある社会悪とみなされ、幾度となく警察の粛清を受けた。
宗教
この節には独自研究が含まれているおそれがあります。 |
(en:Victorian eraより翻訳)
- 1 ヴィクトリア朝とは
- 2 ヴィクトリア朝の概要
- 3 概観
- 4 科学、技術及び工学
- 5 外部リンク
- ヴィクトリア朝のページへのリンク