アレン・コージ アレン・コージの概要

アレン・コージ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/28 04:40 UTC 版)

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アレン・コージ
プロフィール
リングネーム バッドニュース・ブラウン
バッドニュース・アレン
バッファロー・アレン
"バッファロー" アレン・コージ
B・L・ブラウン
本名 アレン・ジェイムズ・コージ
ニックネーム 黒い猛牛
身長 187cm - 188cm
体重 120kg - 123kg
誕生日 (1943-10-22) 1943年10月22日
死亡日 (2007-03-06) 2007年3月6日(63歳没)
出身地 アメリカ合衆国
ニューヨーク州
ニューヨークシティ
スポーツ歴 柔道
トレーナー アントニオ猪木[1]
デビュー 1977年
引退 1998年
テンプレートを表示
獲得メダル
アメリカ合衆国
柔道
オリンピック
1976 モントリオール 重量級
パンアメリカン大会
1967 ウィニペグ ヘビー級
1975 メキシコシティ ヘビー級
パンアメリカン柔道選手権
1968 サンフアン ヘビー級

プロレスでは、バッドニュース・ブラウンBad News Brown)またはバッドニュース・アレンBad News Allen)のリングネームで、新日本プロレスWWFカルガリー地区などを主戦場に活躍した[2]

来歴

ペンシルベニア州立大学時代に日本人柔道家の米塚義定六段(のち柔道アメリカ代表監督・アメリカ柔道連盟会長)に師事。AAUの柔道選手権重量級で5度優勝し、1975年にパン・アメリカン王者となる[2]1976年モントリオールオリンピックに出場、柔道重量級で銅メダルを獲得した。

1977年10月25日、当時異種格闘技戦に注力していた新日本プロレスの「格闘技世界一決定戦」(メインイベントはアントニオ猪木チャック・ウェプナー戦)に初来日。坂口征二と柔道ジャケットマッチを行うが敗退する。同年12月8日にはウィレム・ルスカとも対戦。以降、新日本プロレスの練習生として入門。バッファロー・アレンリングネームでプロレスラーに転向した。

1978年まではベビーフェイスのポジションでヒールのルスカと抗争を展開したが、1979年に本名のアレン・コージ名義でWWFを短期間サーキットした際[3]フレッド・ブラッシーマネージャーに迎えてヒール修行を行う(バロン・シクルナジョニー・ロッズトニー・ガレアラリー・ズビスコS・D・ジョーンズドミニク・デヌーチテッド・デビアスイワン・プトスキーフレッド・カリーなどと対戦)[4]。同年夏からはNWAロサンゼルス地区に出場、同じ黒人ヒールのレロイ・ブラウンビクター・リベラと組み、マンド・ゲレロ&ヘクター・ゲレロ、ツイン・デビルズ、チャボ・ゲレロ&アル・マドリルなどのチームを破りNWAアメリカス・タッグ王座を3回に渡って獲得した[5]

1980年より、髪をスキンヘッドにしてバッドニュース・アレンと改名。ラフファイト主体のヒールに変貌し、以降1987年まで新日本プロレスに連続参戦。プロレスに適応できなかったルスカとは対照的に、シリーズに欠かせない名脇役として活躍する。主にタッグマッチに才能を発揮し、タイガー・ジェット・シンスタン・ハンセンアブドーラ・ザ・ブッチャーブルーザー・ブロディなど、新日本の歴代エース外国人のパートナーを務めた。シングルでは坂口のWWF北米ヘビー級王座に再三挑戦したほか、1984年2月7日には蔵前国技館のメインイベントでアントニオ猪木と対戦。ブッチャーやラッシャー木村との仲間割れによる抗争アングルも組まれた。

北米マットでは、1982年よりスチュ・ハートが主宰するカナダカルガリースタンピード・レスリングに定着。同団体のフラッグシップ・タイトルである北米ヘビー級王座を巡り、ダイナマイト・キッドブレット・ハートモンゴリアン・ストンパーデビッド・シュルツと抗争を繰り広げた[6]1985年5月25日にはハワイにてラーズ・アンダーソンを破りNWAポリネシアン・ヘビー級王座を獲得[7]1986年末からはフロリダ地区に参戦、1987年1月20日にロン・シモンズからNWAフロリダ・ヘビー級王座を[8]、1月31日にケビン・サリバンからNWA南部ヘビー級王座を[9]それぞれ奪取している。フロリダではルーキー時代のレックス・ルガーとも度々対戦した[10]

バッドニュース・ブラウン

1988年バッドニュース・ブラウンとしてWWFと契約。初のPPV登場となる同年3月27日のレッスルマニアIVで行われた20人バトルロイヤルでは、同じヒールとして共闘していたブレット・ハートを裏切って優勝を収めた(この一件によりブレット・ハートはベビーフェイスに転向し、スーパースターへの道を歩むことになる)[11]。その後もケン・パテラジャンクヤード・ドッグを破り、12月30日にはニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンにてランディ・サベージWWF世界ヘビー級王座に挑戦[12]。翌1989年3月11日放送(2月16日収録)のサタデー・ナイト・メイン・イベントではハルク・ホーガンと対戦した[13]

WWFではニューヨークハーレム育ちのストリート・ファイターというギミックを与えられ、誰も信用しない一匹狼のヒールとして活躍。タッグマッチを行っても必ずパートナーと衝突し、サバイバー・シリーズでは2年連続でチーム・メンバーと仲間割れを起こし、試合を放り出して一人で控え室に帰ってしまった[14][15]。フィニッシュ技は新日本マットでマスターした延髄斬りで、ハーレムの喧嘩屋というキャラクターに合わせゲットー・ブラスターGhetto Blaster)と名付けられた。WWFには1990年下期まで在籍し、ジム・ドゥガンロディ・パイパージェイク・ロバーツらトップスターとも短期抗争を行っている[16]

WWF離脱後は新日本プロレスに復帰し、本国ではカナダに永住してロッキー・マウンテン・レスリングなどのインディー団体を転戦。古巣のカルガリーではハート道場(通称 "ダンジョン" )の臨時コーチ役を務め、クリス・ジェリコらを指導している。1992年8月にはUWFインターナショナルに来日。柔道家時代に培った関節技を多用するなど、それまでの悪役レスラーのイメージとは異なる本来の技巧派ぶりを披露した。1993年12月5日の神宮球場大会では桜庭和志チキンウィング・アームロックで破っている。

1998年1月にはアダム&ジェイのカナディアン・ロッキーズを帯同して新東京プロレスにも参戦したが、同年に膝を手術して現役を引退。その後はカルガリーでショッピングモールの警備員として働きつつ、再興したスタンピード・レスリングのカラー・コメンテーターを務め、若手選手の指導にも携わった[17]

2007年3月6日早朝、急性心不全を起こし病院に緊急搬送されるが死去[17]。63歳没。同日、かつて所属していたWWEの公式サイトでも訃報が伝えられた。

エピソード


  1. ^ USJFプロフィール
  2. ^ a b 『新日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P12(2002年、日本スポーツ出版社
  3. ^ WWE Yearly Results 1979”. The History of WWE. 2010年5月2日閲覧。
  4. ^ The WWE matches fought by Bad News Brown in 1979”. Wrestlingdata.com. 2014年6月6日閲覧。
  5. ^ a b NWA Americas Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月14日閲覧。
  6. ^ a b Stampede North American Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月14日閲覧。
  7. ^ a b NWA Polynesian Pacific Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月14日閲覧。
  8. ^ a b NWA Florida Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月14日閲覧。
  9. ^ a b NWA Southern Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月14日閲覧。
  10. ^ The CWF matches fought by Bad News Brown in 1987”. Wrestlingdata.com. 2014年6月6日閲覧。
  11. ^ WWF WrestleMania IV”. pWw - Everything Wrestling. 2010年4月14日閲覧。
  12. ^ WWE Yearly Results 1988”. The History of WWE. 2009年6月17日閲覧。
  13. ^ WWE Yearly Results 1989”. The History of WWE. 2009年6月17日閲覧。
  14. ^ WWF Survivor Series 1988”. pWw - Everything Wrestling. 2010年4月14日閲覧。
  15. ^ WWF Survivor Series 1989”. pWw - Everything Wrestling. 2010年4月14日閲覧。
  16. ^ WWE Yearly Results 1990”. The History of WWE. 2009年6月17日閲覧。
  17. ^ a b Bad News Allen dies suddenly”. SLAM! Sports (March 6, 2007). 2009年6月17日閲覧。
  18. ^ 『ピュア・ダイナマイト - ダイナマイト・キッド自伝』P242(2001年、エンターブレインISBN 4757706391
  19. ^ 『Gスピリッツ Vol.36』P28(2015年、辰巳出版ISBN 4777814998
  20. ^ 『ピュア・ダイナマイト - ダイナマイト・キッド自伝』P94(2001年、エンターブレイン、ISBN 4757706391


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固有名詞の分類

アメリカ合衆国のプロレスラー メリーナ・ペレス  マーク・ルーイン  アレン・コージ  ジミー・アンブリッツ  ロブ・ヴァン・ダム
新日本プロレスに参戦した外国人プロレスラー ルーク・ウィリアムス  ブリティッシュ・ブルドッグス  アレン・コージ  ロブ・ヴァン・ダム  マイク・シャープ・ジュニア
プロレス・トレーナー ドン・ジャーディン  マイク・ブッチ  アレン・コージ  ノーマン・スマイリー  浅子覚
新日本プロレスに所属したプロレスラー 高野拳磁  佐山聡  アレン・コージ  齋藤彰俊  柴田勝頼
柔道出身のプロレスラー ウィレム・ルスカ  小原道由  アレン・コージ  サンボ浅子  金本浩二
アメリカ合衆国の柔道家 ケイラ・ハリソン  マンヴェル・ガンブリャン  アレン・コージ  サヤカ・マツモト  チャック・ウィルソン

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