1944 - 1945年
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平均気温は南西諸島を除き平年より3 - 4℃以上も低く、気象庁の統計開始以来現在までで最も寒い冬となっている。ピーク時は平年を10℃以上下回る日が連続し、多くの地点で積雪記録を更新し長野県や富山県の一部では7mを超えた。北海道の雄武と北見枝幸では92日連続の真冬日(富士山頂以外では最長記録)を記録した。全国各地で歴代最低平均気温を記録(青森1月-5.7℃、八戸1月-6.2℃、函館1月-7.9℃、盛岡1月-6.7℃、山形1月-5.0℃、仙台1月-3.0℃、福島1月-2.6℃、小名浜1月/2月-0.1℃、宇都宮1月-1.9℃、水戸1月-0.7℃、前橋1月-0.2℃、熊谷1月-0.1℃、長野1月-4.9℃、軽井沢2月-7.3℃、河口湖1月-5.2℃、名古屋1月0.4℃、高山2月-6.0℃、津2月2.0℃、富山2月-1.2℃、金沢2月-0.2℃、福井2月-0.5℃、大阪2月1.8℃、神戸1月1.8℃)。また、盛岡で1月26日に-20.6℃、大阪で1月28日に-7.5℃を観測し歴代最低気温となっている。
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1944 - 1945年
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「エセックス (空母)」の記事における「1944 - 1945年」の解説
パウナル少将は、南鳥島攻撃を皮切りに空母作戦を滞りなく進めていったが部下から「慎重すぎる」などと指揮ぶりを批判され、1944年になって早々に更迭された。後任の司令官にはマーク・ミッチャー少将が就任し、部隊の名称も「第58任務部隊」となった。「エセックス」は空母「イントレピッド」、「カボット」とともに第58.2任務群(モントゴメリー少将)に属し、1月29日から2月2日までクェゼリンの戦いの支援に参加した。作戦が予想外に進捗したのを受け、エニウェトクの戦いが繰り上げて実施されることとなり、その支援のためトラック島空襲が実施された。「エセックス」のいた第58.2任務群は、第58.1任務群(ジョン・W・リーヴス少将)および第58.3任務群(F・C・シャーマン少将)とともに2月17日と18日に空襲を行い、壊滅的な損害を与えることに成功した。三個任務群は一旦引き揚げた後、2月23日にサイパン島、テニアン島およびグアムを攻撃して日本側の補給路に更なる打撃を与えた(マリアナ諸島空襲)。一連の作戦を終えると、「エセックス」はオーバーホールのためサンフランシスコに回航された。 オーバーホールを終えた「エセックス」は、アメリカ海軍航空隊のエース・パイロットであるデヴィッド・マッキャンベル(英語版)少佐が率いる第15飛行群を乗せ、空母「ワスプ」、「サン・ジャシント」とともに第58.4任務群を構成し、5月19日から20日にかけては南鳥島を、5月24日にはウェーク島をそれぞれ攻撃。続くマリアナ・パラオ諸島の戦いでは、6月12日から8月10日までのマリアナ諸島制圧、6月19日から20日のマリアナ沖海戦、および9月6日から8日までのパラオ制圧を中心に、一貫して航空支援に努めた。この間、エセックスがいた大艦隊の司令長官は第5艦隊のスプルーアンス大将から第3艦隊のハルゼー大将に代わり、第58任務部隊は第38任務部隊と改められた。直後の9月9日から10日にかけては、第38.3任務群(F・C・シャーマン少将)の一艦としてミンダナオ島攻撃を行い、ペリリューの戦いを支援した。「エセックス」は占領したばかりのウルシー環礁に帰投。10月2日に台風が襲来したものの乗り切って、10月6日に南西諸島および台湾攻撃のため出撃した。 エセックスの艦載機は10月10日に沖縄島を(十・十空襲)、10月12日から14日にかけては台湾各地を空襲してアメリカ軍のレイテ島上陸を支援した。10月24日から25日のレイテ沖海戦に参加し、戦艦「武蔵」撃沈等に貢献した。 その後10月30日まで日本艦隊の捜索を行った後、ウルシーに一旦帰投して補給を行った。11月に入ってからはマニラ空襲などフィリピン北部の要所を空襲し、日本軍に圧力をかけ続けた。ウルシーに再度帰投していた際の11月20日、ウルシーは日本海軍の人間魚雷『回天』による襲撃を受け、エセックスの眼前で給油艦「ミシシネワ」が爆発炎上した。11月25日から26日にかけても「エセックス」の第38.3任務群はフィリピン各地への空襲を計画していた。しかし、その11月25日に「エセックス」は初めて敵の攻撃により損害を受けることとなる。この日、日本軍は零戦、彗星、銀河を基幹とする5隊の神風特別攻撃隊をマニラ近郊の航空基地から発進させ、すでに第38.2任務群(ジェラルド・F・ボーガン(英語版)少将)の「イントレピッド」、「カボット」に突入して損害を与え、「ハンコック」にも軽微な損害を与えていた。「エセックス」は特攻機2機の攻撃を受け、そのうちの1機を撃墜したものの、もう1機が飛行甲板に命中。15名が戦死して44名が負傷したが、深刻な損害とはならず、被災した「イントレピッド」の艦載機を一時的に収容して避難させた。一連の神風攻撃は、ハルゼー大将に11月26日の攻撃を中止させる決断を引き出すに至り、第38任務部隊(ジョン・S・マケイン・シニア中将)の大半はフィリピン海域から一時撤退することとなった。 ウルシーでの修理の後、「エセックス」は再び前線に出動し、12月14日から16日にかけてはミンドロ島の戦いを支援した。コブラ台風に遭遇後、生存者の捜索にあたった。1945年に入り、「エセックス」は台湾、先島諸島、沖縄およびルソン島に対する一連の攻撃に参加し、リンガエン湾上陸に端を発するルソン島の戦いの手助けをした。続いて第38任務部隊は南シナ海に侵入し、サイゴン、海南島、香港、中国沿岸部を片っ端から攻撃し、軽巡洋艦「香椎」率いるヒ86船団などを全滅させるなど猛威を振るった(グラティテュード作戦)。1月20日から21日にかけて台風に遭遇した後、1月26日から27日にかけての台湾、沖縄、宮古島への再度の攻撃を行い、ウルシーに帰投した。この後、ハルゼー大将はスプルーアンス大将と交代して艦隊の名称は第5艦隊となり、第38任務部隊は第58任務部隊となってミッチャー中将が指揮を執る事となった。 「エセックス」は、硫黄島の戦いの援護として1942年4月18日のドーリットル空襲以来初めてとなるアメリカ海軍による日本本土空襲のジャンボリー作戦に参加するため出撃した。2月16日から17日および25日の3度にわたり、艦載機は東京を初めとする関東地方各地の軍事施設や工場を攻撃した。日本軍の抵抗は驚くほど微弱で、艦載機は大した損害もなく空母に収容されていった。3月7日に第58任務部隊はウルシーに帰投したが、3月11日に梓特別攻撃隊による特攻攻撃を受け、空母「ランドルフ」が損傷した。3月に続いて、「エセックス」は沖縄戦に参加。3月28日から5月23日までの間、断続的に航空支援を提供し続けた。この間に再び第5艦隊は第3艦隊となって、ハルゼー大将とマケイン中将が部隊の指揮を執った。4月7日には、沖縄水上特攻作戦に出撃した戦艦「大和」等の撃沈に貢献している(坊ノ岬沖海戦)。 レイテ湾での整備の後、「エセックス」はボーガン少将の第38.3任務群の一艦として、日本の本州各地に対する最終攻撃に参加した。「エセックス」の艦載機は、7月10日の厚木海軍飛行場攻撃を皮切りに、東北地方、青函連絡船などに対する攻撃を遂行した。8月15日の日本の降伏の後、「エセックス」は9月3日まで戦闘哨戒を継続した。その後、直ぐにアメリカ本国に帰国。9月15日にブレマートンに入港し、そのまま1947年1月からはブレマートンの海軍基地において「ヨークタウン」、「タイコンデロガ」、「レキシントン」、「バンカーヒル」、「ボノム・リシャール」とともに予備艦隊に編入され、モスボール処理のうえ保管された。
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