高岡時代
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文化14年(1817年)12月28日妻を娶り、以降高岡に身を落ち着けて医業を行った。文政元年(1818年)父蓬洲と師幸庵が飲酒時の発言を元に仲を違え、文政2年(1819年)心労から心下痞硬を患った。文政4年(1821年)6月24日川原町からの大火で自宅を焼失し、三層の清風明月楼を新築した。 文政5年(1822年)1月5日、東林師と金沢に詩仏を訪ね、14日帰宅した。江戸留学以後、玄沢とは頻繁に文通を続けており、文政3年(1820年)5月の玄白三回忌、文政9年(1826年)9月の玄沢古希及び『重訂解体新書』上梓祝い、文政10年(1827年)1月の玄沢葬儀のため江戸を訪れている。天保5年(1834年)小石元瑞に入門した。嘉永6年(1853年)9月21日大火により自宅を焼失した。 元治元年(1864年)9月14日死去し、瑞龍寺に葬られた。戒名は釈香潔。
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高岡時代
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1944年(昭和19年)9月に、安孫子が藤本のいる高岡市立定塚国民学校(現・小学校)に転校してきて、同じクラスになった。安孫子が休み時間にノートに漫画を描いていたところ、それを見た藤本が話し掛けたことで2人は仲良くなり、いつも一緒に遊んでいたという。 中学3年の時に、手塚治虫の「新宝島」に衝撃と大きな影響を受け漫画家を志す(この時の強い衝撃は著書『まんが道』でも大きく語られる)。この頃、漫画・小説を全て手書きという雑誌のパロディ『少太陽』を制作。 中学から高校にかけて『漫画少年』をはじめとした雑誌投稿をはじめた。当初はそれぞれが単独で投稿していたが、入選率は藤本の方が断然よく、安孫子は屈辱感と嫉妬に悩まされたこともあった。しかし合作をはじめるようになると、藤本が才能を発揮してもそうした心理的屈折がなくなったという。高校2年頃から完全に合作に切り替え、共通の郵便貯金口座を作り、原稿料を管理するようになった。金の管理は、藤本が行っていた。そこから金を引き出し、一緒に映画を鑑賞するようになった。これがきっかけで藤子不二雄名義で描いたもののギャラは全て二分割というスタイルがコンビ解消時まで貫かれた。 彼らは手塚治虫のことを尊敬し手塚に手紙を書いたところ「しっかりしたタッチで将来がたのしみです」と手塚から直筆のハガキを受け取った。これはますます彼らを漫画家になることを決意させた。この頃の二人は手塚治虫の模写ばかりしており、漫画の内容も手塚タッチであった。 1951年(昭和26年)に『毎日小学生新聞』へ手紙と4コマ漫画を送る。手紙の内容は「ぼくたちは富山の高校生です。手塚治虫先生の大ファンで、マァチャンの日記帳からの愛読者です。今、手塚先生の連載漫画がのっていないので、かわりにぼくたちの漫画を連載して下さい」というものであった。そしてひと月が経ち『天使の玉ちゃん』は掲載され、事実上のデビュー作となる(なお、『まんが道』に掲載された『天使の玉ちゃん』はオリジナルのものではなく、安孫子がリメイクしたものである)。またこのことで、二人が漫画を描いていることが先生や他の同級生にも一気に知れ渡った。また、同年には高岡市で発行されていた週刊市民新聞1月新春号に、安孫子の1コマ漫画「うさぎの年」、藤本の4コマ漫画「かるたとり」が掲載された。 1952年(昭和27年)、二人は高校卒業後は就職することにしたが、漫画家への夢を諦めきれずに卒業直前の春休みを利用して宝塚の手塚治虫の自宅へ訪れた。そこで2人が書いた漫画(『ベン・ハー』)を手塚に見せる。手塚はその際「上手だね」という言葉を掛けてその場を取り繕ったが、内心はその出来栄えに衝撃を覚え「とんでもない子達が現れた…」と驚いたという。この時二人が見せた漫画を手塚は終生大切に保管していた。安孫子は手塚と初めて会った際のエピソードとして「あまりにもオーラが凄過ぎて光り輝いて見えた」とラジオ番組で語っている。また、二人はこの時に大好きだった手塚の『来るべき世界』の生原稿を見せてもらい感激する。しかし、その原稿は1300ページもあり二人が知っている内容ではなかった。手塚が「ああ、それはね、没にした原稿なんだよ」というと、二人は「手塚先生は700ページも没にして漫画を描くのか!」と驚いたという。 その後二人は漫画家を目指すにあたり、1人でやるより2人でやった方が力になるだろうということで合作を決意。以後、『新宝島』の手塚治虫にあやかり「手塚不二雄」の名で投稿する。しかし余りにも露骨なため「手塚の足にも及ばない」足塚不二雄名義になった。 高校卒業後、安孫子はおじが経営していた富山新聞社へ入社、藤本は製菓会社へ入社した。しかし藤本は、もし機械に腕を巻き込まれ大怪我をして漫画が描けなくなったらどうしよう、仕事が合わない、と思い数日で退職。安孫子は得意の漫画をいかして紙面にイラストを多く取り入れるなどし、順調に会社勤めをこなしていた。一方、藤本は雑誌社へ送る漫画を描き、週末には安孫子も手伝うという状態だった。足塚不二雄にとって初めての連載作品である『四万年漂流』を連載しはじめたが、数回で打ち切られる。その後、最初で最後の書き下ろし単行本であり藤子不二雄(当時は足塚不二雄名義)の初めての単行本の『UTOPIA 最後の世界大戦』(鶴書房)が出版される。これは名義が「足塚不二雄」であり、現存冊数も少なく日本で最もプレミアム価値がついた漫画単行本の一つである。
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