高岡時代とは? わかりやすく解説

高岡時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/10/02 03:16 UTC 版)

長崎浩斎」の記事における「高岡時代」の解説

文化14年1817年12月28日妻を娶り、以降高岡に身を落ち着けて医業行った文政元年1818年)父洲と師幸庵が飲酒時の発言元に仲を違え文政2年1819年心労から心下痞硬を患った文政4年1821年6月24日川原町からの大火自宅焼失し三層清風明月新築した文政5年1822年1月5日東林と金沢に詩仏を訪ね14日帰宅した江戸留学以後、玄沢とは頻繁に文通続けており、文政3年1820年5月の玄白三回忌文政9年1826年9月の玄沢古希及び『重訂解体新書上梓祝い文政10年1827年1月の玄沢葬儀のため江戸訪れている。天保5年1834年小石元瑞入門した嘉永6年1853年9月21日大火により自宅焼失した元治元年1864年9月14日死去し瑞龍寺葬られた。戒名は釈香潔。

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高岡時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 07:26 UTC 版)

藤子不二雄」の記事における「高岡時代」の解説

1944年昭和19年9月に、安孫子藤本のいる高岡市定塚国民学校(現・小学校)に転校してきて、同じクラスになった安孫子休み時間ノート漫画描いていたところ、それを見た藤本話し掛けたことで2人仲良くなり、いつも一緒に遊んでいたという。 中学3年時に手塚治虫の「新宝島」に衝撃大きな影響を受け漫画家志す(この時の強い衝撃著書まんが道』でも大きく語られる)。この頃漫画・小説全て手書きという雑誌パロディ『少太陽』を制作中学から高校にかけて『漫画少年』をはじめとした雑誌投稿はじめた当初それぞれ単独投稿していたが、入選率は藤本の方が断然よく、安孫子屈辱感嫉妬悩まされたこともあった。しかし合作をはじめるようになると、藤本才能発揮してそうした心理的屈折なくなったという。高校2年頃から完全に合作切り替え、共通の郵便貯金口座作り原稿料管理するようになった。金の管理は、藤本が行っていた。そこから金を引き出し一緒に映画鑑賞するようになった。これがきっかけ藤子不二雄名義描いたもののギャラ全て二分割というスタイルコンビ解消時まで貫かれた。 彼らは手塚治虫のことを尊敬し手塚手紙書いたところ「しっかりしたタッチ将来がたのしみです」と手塚から直筆ハガキ受け取った。これはますます彼らを漫画家になることを決意させた。この頃二人手塚治虫模写ばかりしており、漫画内容手塚タッチであった1951年昭和26年)に『毎日小学生新聞』へ手紙4コマ漫画を送る。手紙の内容は「ぼくたちは富山高校生です。手塚治虫先生大ファンで、マァチャンの日記帳からの愛読者です。今、手塚先生連載漫画がのっていないので、かわりにぼくたちの漫画連載して下さい」というものであった。そしてひと月経ち天使の玉ちゃん』は掲載され事実上デビュー作となる(なお、『まんが道』に掲載された『天使の玉ちゃん』はオリジナルのものではなく安孫子リメイクしたものである)。またこのことで、二人漫画描いていることが先生や他の同級生にも一気知れ渡ったまた、同年には高岡市発行されていた週刊市民新聞1月新春号に、安孫子1コマ漫画「うさぎの年」、藤本4コマ漫画かるたとり」が掲載された。 1952年昭和27年)、二人高校卒業後は就職することにしたが、漫画家への夢を諦めきれずに卒業直前春休み利用して宝塚の手塚治自宅訪れた。そこで2人書いた漫画(『ベン・ハー』)を手塚見せる。手塚その際上手だね」という言葉を掛けその場取り繕ったが、内心はその出来栄え衝撃覚えとんでもない子達現れた…」と驚いたという。この時二人見せた漫画手塚終生大切に保管していた。安孫子手塚初め会った際のエピソードとして「あまりにもオーラが凄過ぎて光り輝いて見えた」とラジオ番組語っている。また、二人はこの時に大好きだった手塚の『来るべき世界』の生原稿見せてもらい感激する。しかし、その原稿1300ページもあり二人知っている内容ではなかった。手塚が「ああ、それはね、没にした原稿なんだよ」というと二人は「手塚先生700ページも没にして漫画を描くのか!」と驚いたという。 その後二人漫画家目指すにあたり1人でやるより2人でやった方が力になるだろうということ合作決意以後、『新宝島の手塚治あやかり手塚不二雄」の名で投稿する。しかし余りにも露骨なため「手塚の足にも及ばない足塚不二雄名義になった高校卒業後、安孫子はおじが経営していた富山新聞社入社藤本製菓会社入社した。しかし藤本は、もし機械に腕を巻き込まれ大怪我をして漫画描けなくなったどうしよう仕事合わない、と思い数日退職安孫子は得意の漫画いかして紙面イラスト多く取り入れるなどし、順調に会社勤めこなしていた。一方藤本雑誌社へ送る漫画描き週末には安孫子手伝うという状態だった。足塚不二雄にとって初めての連載作品である『四万漂流』を連載しはじめたが、数回打ち切られる。その後最初で最後書き下ろし単行本であり藤子不二雄当時足塚不二雄名義)の初めての単行本『UTOPIA 最後の世界大戦』鶴書房)が出版される。これは名義が「足塚不二雄」であり、現存冊数少なく日本で最もプレミアム価値がついた漫画単行本一つである。

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