陸軍特攻の作戦変更
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 07:57 UTC 版)
陸軍中央は海軍が「万朶隊」と「富嶽隊」のような爆撃機ではなく、小回りの利く「零戦」や艦上爆撃機「彗星」などの小型機による特攻で成果を挙げていることを知り、明野教導飛行師団で一式戦闘機「隼」などの小型機を乗機とする特攻隊を編成し、「八紘隊」と名付けてフィリピンに投入した。名前の由来は日本書紀(淮南子)の「八紘をもって家となす」(八紘一宇)による。その後に「八紘隊第1隊」「八紘隊第2隊」などと呼ばれていた各隊を、富永が自ら「八紘隊」、「一宇隊」、「靖国隊」、「護国隊」、「鉄心隊」、「石腸隊」と命名している。富永は史学の知識が深く、また文才も豊かで達筆でもあり、特攻隊の部隊名は歴史などの故事に因んで命名された。例えば「鉄心隊」と「石腸隊」は中国北宋の政治家で文才と画才にも秀でていた蘇軾の「李公択に与うるの書」を出典として、容易には動かせない堅固な意志を表す言葉「鉄心石腸」から命名されている。後に八紘隊は、明野教導飛行師団・常陸教導飛行師団・下志津教導飛行師団・鉾田教導飛行師団から合計12隊まで編成され、「丹心隊」、「勤皇隊」、「一誠隊」、「殉義隊」、「皇魂隊」、「進襲隊」と命名された。八紘隊各隊は「十神鷲十機よく十艦船を屠る」と称されたほど、「特攻で艦船の撃沈は無理」などとして特攻に反対していた岩本ら の懸念を払拭し、確実に戦果を挙げるようになった。 何度も出撃しながら帰還を繰り替えす佐々木は有名人となっており、なかには喝采を送る者もいたが、飛行第75戦隊の戦隊長の土井勤少佐は、佐々木が帰還を繰り返しているという噂を耳にしたときに、死を賭して戦っている自分らに対して、佐々木のように自ら進んで死ぬという覚悟ができていない人間に、無理に死ねと言うことは非常に困難であると感じたなどと冷めた見方をしている。そして佐々木には、12月5日には6回目の出撃が命じられた。この日佐々木は特攻隊「鉄心隊」(装備機「九九式襲撃機」、隊長松井浩中尉)と一緒にカローカン飛行場から出撃、数時間の飛行でレイテ湾まで到達し、アメリカ軍の無数の艦影を確認し突入していく松井機に続いて佐々木機も急降下を開始した。佐々木はやがて大型船(艦種不詳)を視認したので、同船を攻撃することとし攻撃態勢に突入した。無数の対空砲弾を掻い潜りながら、佐々木は大型船から200mから300mの高度で爆弾を投下、命中の瞬間は海面すれすれでの待避行動中で確認できなかったが、振り返ると大型船に火柱が上がってはいなかったものの傾いていたように見えたので、この大型船を撃沈したと判断し「レイテで大型船を撃沈しました」と報告している。佐々木はこの出撃で「戦死した」と第4航空軍から陸軍中央に報告されており、天皇から金鵄勲章と勲6等旭日章が授与されることが決定した。この一連の受勲によって佐々木は公式には戦死扱いとなった。 この日の大型船を撃沈とする報告は、佐々木の特攻出撃中唯一の戦果報告となったが、この日のアメリカ軍及びアメリカ合衆国商船隊の公式記録によれば、沈没艦は中型揚陸艦「LSM-20」の1隻のみで、アメリカ軍の戦闘記録では「LSM-20」は「オスカー」こと一式戦闘機「隼」に特攻されたとなっている。「隼」に艦尾付近に激突された「LSM-20」は戦死者8名、負傷者9名を出し、艦首を上にして艦尾から次第に沈んでいった。この日に出撃した「隼」を装備した特攻隊は天野三郎少尉率いる「一宇隊」の3機のみで、従ってこの戦果は同隊のもので佐々木の爆撃によるものではない。「一宇隊」の「隼」は、他にも中型揚陸艦の船団を護衛していた駆逐艦「ドライトン(駆逐艦)」(英語版)にも命中し、Mk 12 5インチ砲の砲塔を一つを叩き壊し、戦死者6名と負傷者12名を生じさせた。「一宇隊」と同時に出撃した「石腸隊」の「九九式襲撃機」7機も突入し中型揚陸艦「LSM-23」を撃破し戦死者8名と負傷者7を生じさせたが、他の機は上空で護衛していた「P-38」に撃墜された。 この日、「鉄心隊」3機と「万朶隊」佐々木らは15時に出撃し、日没の前に敵艦隊を攻撃したとされるが、同時間の連合軍の該当する損害は、対潜水艦警戒にあたっていた駆逐艦「マグフォード(駆逐艦)」(英語版)の損傷で、同艦は17時15分から「ヴァル」こと海軍の「九九式艦上爆撃機」数機の攻撃を受け、1機目は突入に失敗、2機目が艦の中央部に激突し8名の戦死者と14名の負傷者を出して大破したが、他の機は護衛の「P-38」に撃墜されたとされている。しかし、この日に出撃した海軍の「九九式艦上爆撃機」はなく、同じ固定脚で機影も似ている陸軍の「九九式襲撃機」と誤認したものと思われるが、戦闘記録に佐々木の乗機である双発機「九九式双発軽爆撃機」は登場しない。その他にも海軍の「零戦」がリバティ輸送船「マーカス・デイリー (英語版)」(海軍戦死者65名 負傷者49名、乗船していた陸軍兵士200名以上死傷)を大破させ、「ジョン・エバンス」(負傷者4名)に軽微な損傷を与えている。 11月27日に「八紘隊」(一式戦闘機「隼」)が戦艦「コロラド」、軽巡洋艦「セントルイス」、軽巡洋艦「モントピリア」に突入して大きな損害を与え、駆潜艇「SC-744」を撃沈。11月29日、「靖国隊」(一式戦「隼」)が戦艦「メリーランド」、駆逐艦「ソーフリー」、駆逐艦「オーリック」に突入し、これも大きな損害を与えている。なかでも、靖国隊の一式戦「隼」が40.6cm砲(16インチ砲)の主砲塔に突入した戦艦「メリーランド」は大破炎上し、修理のために翌1945年3月まで戦列を離れている。「メリーランド」に突入した「隼」は、雲の中から現れて急降下で同艦に突入する寸前に機首を上げて急上昇をはじめ、尾翼を真下に垂直上昇してまた雲に入ると、1秒後には太陽を背にしての急降下で「メリーランド」の第2砲塔に突入した。その間、特攻機はまったく対空射撃を浴びることはなかった。その見事な操縦を見ていた「メリーランド」の水兵は、「これはもっとも気分のよい自殺である。あのパイロットは一瞬の栄光の輝きとなって消えたかったのだ」と日記に書き、その特攻機の曲芸飛行を見ていた「モントピリア」の艦長も「彼の操縦ぶりと回避運動は見上げたものであった」と感心している。 さらに12月13日には「一宇隊」(一式戦「隼」)が軽巡洋艦「ナッシュビル」に突入、「ナッシュビル」はダグラス・マッカーサー元帥の旗艦であったが、この日はマッカーサーは乗艦しておらず、ミンドロ島上陸作戦のために攻略部隊を率いていたアーサー・D・ストラブル少将が旗艦として使用していた。そこに特攻機の攻撃を受けたため、ストラブル自身は無事であったが、攻略部隊の多くの指揮官や幕僚を含む325名の大量の死傷者を生じて艦は大破し、この艦を気に入っていたマッカーサーを落胆させた。
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