開拓と藩政下の治水
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筑後川流域に人の営みが培われるようになったのは縄文時代末期の紀元前400年頃と推定される。当時筑紫平野の大部分は海であり、筑後川河口も当時は背振山地南部に偏っていたとされている。 この地に大規模な環濠集落である吉野ヶ里遺跡が誕生し、以後弥生時代中期の3世紀まで約700年もの間栄えた。その後海退期を迎えて海岸線が徐々に南西へ移り、筑後川本流・支流の土砂運搬も相まって次第に沖積平野である筑紫平野が形成された。大化の改新で班田制が施行されると有明海の干拓が開始され、現在の柳川市から佐賀平野に掛けての筑後川下流では条里制による整然としたクリークが引かれるようになったが、墾田永年私財法により土地私有が認められ班田制が崩壊し荘園が形成されると、それらクリークも雑然と整備されるようになった。鎌倉時代以降室町時代末期まで筑後川流域は少弐氏や大友氏、大内氏、龍造寺氏、島津氏が相次いで支配し、筑後川の戦いを始めとして戦乱が多く繰り返されたが、筑後川の開発については見るべきものがなかった。 筑後川の開発が積極的に行われるようになったのは豊臣秀吉が全国統一を果たした安土桃山時代末期、筑後川の中州開拓からである。1592年(天正20年)緒方将監は道海島を開拓するために入部し、肥前国住民からの妨害にも負けず1610年(慶長15年)に18年の歳月を掛けて開墾に成功した。 1605年(慶長10年)からは肥後国菊池氏の末裔である菊池十左衛門が浮島を、1610年からは筑後国三潴郡(みずまぐん)住人三郎左衛門が大野島の開拓を行い新田を開墾した。これらの島は筑後国領域と認定され、現在でも福岡県の一部となっている。1622年(元和8年)には柳河藩貨幣方だった三潴郡の豪商・紅粉屋七郎左衛門が干拓によって80町歩を開拓している。 この頃干拓地は『搦』(からみ)、または『開』(ひらき)と呼ばれていた。『搦』については干拓堤防の中心となる杭に竹などの枝を絡み付ける技法から、『開』は開拓・開墾・開発から語源が来ていると考えられている。 治水事業は江戸時代初期より藩主導で開始されている。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いにおいて筑後では久留米城主の小早川秀包と柳河城主の立花宗茂が西軍に加担したため改易され、代わりに石田三成を捕縛する大功を立てたことにより田中吉政が筑後一国・柳河32万石の国主として1601年(慶長6年)に入部したが、吉政は早くも筑後川の改修に取り組んだ。1606年(慶長11年)から13年の歳月を掛けて瀬の下地区(久留米市)の蛇行を解消するべく筑後川の流路をショートカットする瀬の下捷水路(しょうすいろ)を開削し、筑後川の流路を変更した。田中忠政が無嗣により改易された後久留米21万石の藩主となった有馬豊氏は引き続き河川整備を行い、寛永年間(1624年~1643年)に安武堤防を築堤した。 一方、肥前佐賀藩執政・鍋島直茂の重臣で中世土木史にその名を刻む成富茂安(なりどみ・しげやす)は蛤岳から那珂川の支流である大野川へ流下する水を、水路により山地の周囲を回らせて田手川へ導水する「蛤水道」を1626年(寛永3年)に完成させ、神埼郡の灌漑を図った。 しかしこれにより逆に福岡藩側の水の便が悪くなり大野川が枯れた。これに抗議すべく福岡藩側の「お万」と言う女性が築堤を壊そうとし、母子ともに滝に身を投げたと言う逸話も伝わる。 その後茂安は水路の溢水対策として「野越し」と言うオーバーフローを設け、増水時には大野川にも配水するようにした。また、茂安は三根郡・養父郡(やぶぐん)・基肄郡(きいぐん)を水害から守るため1643年(寛永20年)に筑後川右岸に12キロメートルの二重堤防を築堤した。 これは「千栗(ちりく)堤防」と呼ばれ現在は河川改修により残っていないが、築堤以来300年近くにわたり堤防決壊などが起こらず、地域住民を水害から守った。このため茂安の名は同郡では大変な尊敬をもって迎えられ、かつて同郡内には茂安の名にちなんだ北茂安村・南茂安村が存在したほどであった。 また、水制として水刎(みずはね)・荒籠(あらかご)などが各所に設置されたが、荒籠は水流に対して直角に設置して水流を弱めるため対岸の護岸を削る副作用があり、これが原因で上流部では福岡藩と久留米藩が、下流部では佐賀藩と柳河藩が対立。各藩が勝手に水制を設置したことにより却って洪水被害が増幅する皮肉な結果を導いた。
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